販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

阿部義男さん(仮名)

「人の道 若葉とともに 石枕」 お客さんには感謝をこめて3度おじぎ

阿部義男さん(仮名)

複数の路線が乗り入れる上野駅にほど近い松坂屋前で、10時半から18時半までビッグイシューを売る阿部義男さん(仮名・51歳)のところには、いろいろなお客さんがやってくる。

「これから新幹線で帰るんだけど、福島では買えないからバックナンバーもちょうだいよ」と、まとめ買いするお客さん。「この雑誌、私の国でも売ってるよ」と、英語で話しかけてくる外国人観光客。中学生の頃から英語好きで、英語の弁論大会に出たこともある阿部さんは、ちょっとした英会話なら難なくこなせる。観光客とのおしゃべりは楽しい。

でも、「何といってもありがたいのは『今日も頑張ってるね』って、毎日声をかけてくれるご近所の人」。中には、自宅の空きガレージを寝場所として提供してくれている人もいる。今でこそ、こうして人の親切に甘えられるようになった阿部さんだが、振り返れば他人に尽くしてばかりの半生だった。

阿部さんは茨城の生まれ。両親は自営業。次男としてかわいがられたが、実の母親は離れて暮らす芸者だった。地元の高校を卒業後、上京してヘアデザイナーの専門学校に通うが、1年で才能がないことに気づいた。実家に戻り、1年の浪人生活を経て大学に合格。まもなく、学内の女性と結婚を前提にした交際が始まった。ところが2年になってすぐ、他に好きな男性がいることを打ち明けられた。悲嘆に暮れた阿部さんが向かったのは、高さ約50mの断崖が10㎞も続く千葉県の屏風ヶ浦。そこから身を投げようとしたまさにそのとき、背後から「やめなさい!」という中年夫婦の声が聞こえた。

半年後、退学して実家に引きこもっていた阿部さんのもとに夫婦が電話をかけてきた。「私たちが住んでいるアパートに空室が出たから、東京にいらっしゃい」。そう言うと2人は、ツアーコンダクターの仕事まで世話してくれた。ところがその後、夫婦のうちの男性が腎臓の病に冒されると、内縁関係にあった妻は姿を消した。阿部さんは身寄りのない〝命の恩人〟に付き添おうと、時間の融通が利かないツアーコンダクターを辞めて昼は宅配業者、夜はスナックでバイトをした。病院の送り迎えに食事やトイレの世話と何でもやった。好きな女性と同棲した時期もあったが、「あの人と私、どっちが大事なの?」と聞かれ、「どっちも」と答えると出ていった。やがて15年にわたる闘病生活も虚しく、男性は亡くなった。

それから4年後、阿部さんは銀座の公園で、やけに気の合うホームレスの男性と知り合った。寒空の下で眠る姿が気の毒で、彼のためにアパートを借りた。それから10年間、阿部さんは彼の家賃と生活費を払い続けた。その彼も一昨年、脳卒中で亡くなった。「兄と妹に連絡を取ったら『もう兄弟でも何でもないから』と、線香の一本もあげてくれなかった。すべてが虚しくなって、1ヶ月ほど供養の旅に出たんです」。旅から戻ってバイトを再開したが、半年と続かなかった。再就職先を探してはみたものの、五十路目前の阿部さんを採用する会社はなかった。

昨年4月、自暴自棄になって家を出た。「土地が変われば状況も変わるかもしれないと期待して名古屋に行ったんですが、そう甘くはなかった」。夏になり、所持金が1万円を切ったとき、阿部さんはビジネスホテルから路上へ出た。3000円で中古自転車を買い、アルミ缶を集めた。秋になると急に東が恋しくなり、横浜へと飛んだ。「横浜では、同じホームレスの私に売ってくれるだろうかとドキドキしながら、ビッグイシューを買ったこともありますよ」。アルミ缶で得た500円を渡し、2冊買った。応援の気持ちから、釣りの100円は受け取らなかった。

12月、懐かしい東京へ戻ってきた。「所持金は130円。今度こそ飢え死にすると失望に打ちのめされたとき、ビッグイシューの赤い帽子が目に入ったんです」。なかなか勇気が出ず、販売員の前を何度も素通りした。4度目にやっと声をかけることができた阿部さんは、翌日からさっそく販売員として路上に立った。

1日の販売部数は20~25冊。売り上げが振るわないときは、「今はビッグイシューのCMタイム」と自分に言い聞かせて気持ちを切り替える。お客さんには3度もおじぎをする。お客さんが来たときと、お金を受け取ったときと、後ろ姿に向かって。

「私を生かしてくれるお客さんへの心からの感謝です」。そんな阿部さんの唯一の楽しみは、仕事の合間に詠む俳句だ。「人の道 若葉とともに 石枕」。自分の人生にもいつか必ず訪れる新緑の季節を待ちわびる。そんな気持ちが、切々と伝わってくる。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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