販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

佐々木重義さん

ああ、俺は働くよー。 自ら足場を組んだ高層ビルの足下でビッグイシューを売る

佐々木重義さん

企業の本社ビルが建ち並び、大きな大学も近い、JR田町駅の三田口を出ると、穏やかな東北なまりでビッグイシューを売る声が聞こえてくる。
声の主は、1955年生まれの佐々木重義さん(50歳)。週に7日、朝8時から遅いときは夜11時まで、ほぼ休みなしで1日40冊前後を売り続けている。寝泊まりしているのは、売り場近くの路上。そこから、1時間もかけて六本木ヒルズ近くのコインランドリーまで歩いて行き、香りのよい洗剤でこまめに服を洗う。実直で几帳面な人だ。

秋田県の農家で生まれ育った佐々木さんは、中学を卒業してから2、3年の間、家業の米作りを手伝っていた。18歳の頃、千葉県で兄の友人が経営する土木作業の会社に身を寄せる。第四次中東戦争の影響で原油価格が跳ね上がったオイルショックの最中のこと。急速なインフレで物の値段が高騰し、戦後続いた高度経済成長が終わりを迎えたちょうどその頃、家で農作業に勤しんでいた佐々木少年は、家族のすすめで家を出たのだ。

3年ほどして仕事を覚えたら、社長から新しい仕事を紹介すると言われた。
「これからは自分で仕事をしなさい、と言われて、紹介された建築会社に行きました」
「たくさん仕事ができると思って」のことだった。以来、49歳までのおよそ30年間、住み込みで建設現場を転々としながら、建物を建てるときの足場を組む作業に従事してきた。給料は12万円くらいのはずだったが、寮費や食事代、布団代と称する金額を引かれ、実際には半分が手元に残ればいいほうだったという。
「1食1500円で、ご飯におかずが1品っていうこともありましたね」

ケタオチ(桁落ち)と呼ばれる極端に賃金が安い業者を紹介され続けたのかもしれない。途中、工場で働いてアパートに入ろうとしたこともあったが、仕事は決まらず、金も貯まらなかった。今年の春、命綱はあっても、高いところでの作業は危ないと思う年齢になって、佐々木さんはようやく、それまでの仕事を辞めることにした。
「1ヶ月くらいゆっくりして、今度は高いところに上らなくてすむような建設土木の仕事を探そうとしたんです。スポーツ新聞に出ているところに電話したんですけど」

50歳を目前にした佐々木さんに、もう新しい仕事は見つからなかった。日比谷公園で野宿をしながら、炊き出しに通うようになって2ヶ月ほどが経った8月。ぽつんとたたずんでいるとビッグイシューのスタッフに声をかけられた。
「他の仕事が見つかったらいつやめてもいいですからって言うからね」

2週間ほどで顔なじみのお客さんもでき、1日40冊売ると、手元に4000円ほどが残るようになった。

「1日に弁当を1個、カップラーメンを1個、あとは、おにぎりと、寝るために1本だけビールを買います。週に2、3回銭湯へ行くと、なるべく貯めておきたいけれど、なかなかね……」
こだわりの洗濯にも500円ほどかかる。

ビッグイシューの販売を初めて3ヶ月。先のことはあまり考えたことはない、という。
「仕事は楽しいですよ。身体が疲れるわけではないからね」

― 秋田のご家族は?

「お袋さんは病院にいるよ。父親は死んだ。ずいぶん前に。きょうだいはお兄さんと妹がいるけれど今は連絡をとってないなぁ」
中学生まで過ごした実家の農家はもうない。

「佐々木さん、働き者なんですね」と言葉を継ぐと、

「ああ、俺は働くよー」

今までで一番力強い答えが返ってきた。ひたすら働き続けてきた佐々木さんは、自ら足場を組んだ高層ビルの足下で、今日もひたすら『ビッグイシュー』を売っている。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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