販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

オーストリア『アプロポ』販売者 イグボアヌゴ・アニチュク

思わぬ縁でたどり着いた湖畔の町
いつか妻子を呼び寄せるため、仕事に精を出す

オーストリア『アプロポ』販売者 イグボアヌゴ・アニチュク

ナイジェリア南部の小さな村からはるばる渡欧し、ようやくザルツブルクの地を踏んだイグボアヌゴ・アニチュクは、ある日150番のバスに乗った。観光客にとっては、かつての王侯貴族ゆかりの避暑地バート・イシュルを訪れるルートだが、彼が向かおうとしたのはカトリック系の社会支援団体「カリタス」が運営する緊急シェルターだ。
 ところが、バスの運転手がうっかりして目的地で降ろすのを忘れてしまい、イグボアヌゴは終点の町ザンクト・ギルゲンまで乗り過ごすはめに……。そこでは、まさに観光用のポストカードでよく見られるヴォルフガング湖畔の牧歌的な景色が広がっていた。
 どこか落ち着ける場所はないかと思案した彼は、再びバスに乗って町境まで戻り、そこで見つけたスーパーマーケットに入店。店のオーナーに自分が『アプロポ』の販売者だと伝えると、店先で雑誌を売らせてもらえることになった。当時の体験を、イグボアヌゴはこう振り返る。
「いつか妻子をオーストリアへ呼び寄せたい一心で、1週間のうち6日間は雑誌販売に精を出しました。バカンス客がホテルへ戻る夕暮れ時になると、私は湖水で身体を洗い、まるで〝犬のように〟その日の食事をむさぼりました。それから茂みの中で寝袋を広げて、睡眠を取ります。寝袋から出るのは、翌日にまたスーパーへ出かける時だけでした」
 母国では味わったことのない、厳寒の冬。クリスマス前夜には、人っ子ひとりいなくなる町並み。見知らぬ人には挨拶もしない、地元の住民。売り場で高齢の男性から「ここから出て行って、まともな仕事を探せ」と叱責された時には、「これが人種差別なのか」と思い悩むこともあった。
「それでも、こういった経験をしてよかったと思います。夜露をしのぐ屋根がない場所で生きるとはどういうことか、じっくりと考えました――私は『人生で起こることにはすべて理由がある』と信じていますから。ザンクト・ギルゲンに来て以来、さほど知り合いがいなくてもコミュニティの一員だと感じられますし、やっぱり母国にいるよりも安全なのです」
 その後、スーパーのオーナーは野宿生活を続けていたイグボアヌゴのために住む部屋を探してくれた。これで住所を持ち、安定した仕事を探すこともできる。清掃業に就く見通しもできた。
 今、イグボアヌゴにはもう一つの仕事がある。毎週日曜日、ザルツブルクで開かれる蚤の市で仕入れた品々を、別の市場で卸すのだ。
「地下室や屋根裏部屋で眠っている物が、どんなに価値がある〝宝物〟なのか、じつは知らない人たちが多いんです。市場で売り買いをしながら、お客さんと会話を楽しめますしね」
 そう語るイグボアヌゴの目は生気にあふれており、これからも彼の才能は大いに発揮されるだろう。


Text: Matthias Gruber, Apropos/INSP/編集部
Photo: Siegrid Cain

『Apropos』
1冊の値段/3ユーロ(そのうちの半分が販売者の収入に)
発行頻度/月刊
販売場所/ザルツブルク

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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