販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
オーストリア・ザルツブルク『アプロポ』販売者 イオン・フィレスク
出稼ぎと路上生活は子どもたちのため。 2つの世界をつなぐ、スマホの写真
「幼少期に嗅いだ香りで覚えているものはありますか」と尋ねると、イオン・フィレスクは間を置かずこう答えた。「田舎育ちだからよく祖父と畑で過ごしたんだけど、新鮮な干し草の香りや強い夏の日差しを思い出すよ」
ルーマニア南部のワラキアで育ったフィレスク。ワラキアは、現在ルノーの傘下にある自動車メーカー・ダチア社の生産拠点ピテシュから25㎞ほどのところに位置するが、いたるところで貧困が影を落とす地域でもある。
好奇心旺盛だった彼は大学に進学したかったが、他の多くの級友と同様、経済的な理由からあきらめざるをえなかった。「地元では優秀な成績を収めていたんだけどね、それだけでは輝かしい未来に手が届かなかった」。そうしてフィレスクは、生活のため建設業界で働き始め、時には闇取引にも手を出し、最後にはオーストリア・ザルツブルクにたどり着いた。
その時以来、2つの世界を生きるようになった。一つは故郷。新鮮な干し草の香りが漂う懐かしい場所であるとともに、貧困により何世代にもわたって人々の機会が奪われてきた。今ではそこに妻と3人の子どもたち――シドニア(14歳)、サガー(11歳)、ベンジャミン(1歳)が住んでいる。
そしてもう一つが、ザルツブルクでの生活。2011年からザルツブルク北部にあるノイマルクトで『アプロポ』誌を販売している。2つの世界は古びたスマートフォンでつながっているという。「このスマートフォンには、宝物のような子どもたちの写真がたくさん入っているからね」
フィレスクはいつもこぎれいにしているので、同国に来て約10年経つ今も路上で寝起きしていると聞くと驚かれるかもしれない。しかしこれは、彼の前に立ちはだかる悪循環のせいだ。ザルツブルクでは(正式な)仕事がないとアパートに入れず、住所がないと公的な住民登録ができず、登録がなければ仕事に就けないのだ。
雑誌販売で得た収入は、ルーマニアにいる子どもたちの養育費になる。「子どもたちにはお金がないことで不利益を被ってほしくないと考えているけれど、生活費を支払うと彼らの養育のために残るお金はほんのわずか。少しでも子どもたちにお金を回すために、路上生活を続けているんだ」
コロナ禍はフィレスクの生活も直撃した。売り上げが落ちたことから、20年ぶりに故郷ルーマニアに長期滞在することに決めたのだ。「子どもたちの成長を見守ることができるのはうれしいけれど、やがて家計のためにザルツブルクに戻る日が来るだろう」。その時には子どもたちを叔母に預けて、妻も『アプロポ』誌の販売者になる予定だという。
フィレスクには将来の夢や計画もある。だが今は、ただ一日一日を生き抜くだけだ。
Text:Matthias Gruber, Apropos/INSP
Photo: Andreas Brandl
『Apropos』
1冊の値段/3ユーロ
(そのうちの半分が販売者の収入に)
発行頻度/月刊
販売場所/ザルツブルク
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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