販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

嬴政さん

毎号買ってくれる人たちの存在が励み。周りに何を言われても後悔しない生き方をしたい

嬴政さん

多くの人が足早に通り過ぎ、行きかう電車や再開発の工事の音が響く渋谷駅東口(9番出口付近)。がっしりした体格の嬴政さん(仮名 47歳)は、1年前から毎日午前中から午後7時まで立っている。14年9月に販売者として登録し、途中で別の仕事に就いたこともあるが、ここの売り場は3ヵ所目。「買ってくれた人に『ありがとうございます』と言うと、相手も『ありがとう』って言ってくれるんです。これまで仕事をしてきた中でそんなことを言ってもらえることはなかった。だからうれしくて」。毎号買ってくれる人たちの存在が励みになっている。
嬴政さんは北海道出身。「とにかく北海道を出たい。誰も自分のことを知らないところに行こう」と地元の高校を卒業後、1990年4月、関東のパン工場で正社員として働き始めた。バブル絶頂期の当時、休みなく働く「ブラックな働き方」は当たり前だった。そんな生活に嫌気がさし、1年ほどして退職。自動車工場の期間従業員として2年ほど働いた後、都内でビル清掃の仕事を始めた。ひたむきに仕事に励み、15年ほど経験を積んで独立したが、あえなく事業に失敗。お金も気力も底をつき09年4月、路上に出た。
つらいこともあったが、炊き出しや日雇いの仕事などで何とか生活をつないだ。ビッグイシューの販売を始めたのは、仲間からの紹介がきっかけ。販売を始めるまでは、空いた時間を図書館に通うなどして過ごしていたが、徐々に飽きて時間を持て余していた。そんな時に頭をよぎるのは「自分はいったい何をしているんだろう」という思い。販売を始めて大きな変化は、「自分も働いているんだな」と思えるようになったことだ。「もちろん、自分のためにこの仕事をしているんだけれど、買ってくれる人のことを考えると、さぼれないよね」。他の用事が入った日でも、終わってから欠かさず売り場に足を運び、販売を続ける。本音を言うと、長時間立ちっぱなしの仕事は足腰に堪える。「人生で一番楽しかった」という高校時代には陸上部で長距離走の選手で大会を目指して練習に打ち込んだ。今は身体を壊さないようにとトレーニングを欠かさない。何に対しても手を抜かない嬴政さんの人柄が覗けた。
今の楽しみは、週に一度インターネットカフェに入り、人気アイドルグループのテレビ番組を見ること。ビッグイシュー基金のプログラムで、2年ほど前から料理クラブの部長も務めている。2ヵ月に一度のペースで6人ほどで集まり、カレーはすでに十種類以上つくった。レシピは毎回、部員で話し合って決めている。「嫌いなものは部長権限で却下。何を作っても案外ちゃんとしたものができるんだよ」と冗談めかして笑う。最近は生地からこねたうどんもつくり、スタッフにも振る舞った。嬴政さんは「まずいモノを作りたいんだ」と、ユーモアをこめて一言。たとえ、おいしく仕上がらなくても、一所懸命作ってレベルを上げていきたいという思いが込められていた。
将来のことを尋ねると、嬴政さんはしばらく考えて口を開いた。「とりあえず、東京オリンピックの間、生活や販売できるかが心配。あとはもう、どうしたいと欲を言う年齢でもないかな」。時々、幸せとは何だろうと考える。「金持ちは妬まれるでしょ。だから中間がいい。食べるものに困らず、周りに何を言われても後悔しないで過ごしていけたらいいな」

(写真クレジット)
Photos:横関一浩

(写真キャプション)
渋谷駅東口(9番出口付近)にて

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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