今月の人

『ビッグイシュー・ノース』販売者 ステファン・ナン

ルーマニアからエジプトへ、9ヵ月間の徒歩の旅。 「私は自由な精神の持ち主です」

『ビッグイシュー・ノース』販売者 ステファン・ナン

晴天だが寒さのこたえる昼下がり、英国マンチェスターのマーケットストリート。雑踏のなかに、逆立ちをして脚を水平に広げた男がいた。時おり目の前に置いたボウルに小銭を入れていく人がいる。
逆立ちしているのはステファン・ナン(54歳)。大道芸人にしてビッグイシュー販売者であり、旅人、元修道士、陸上選手、ヨガの達人、栄養士、そしてマッサージ師でもある。
逆立ちをしていた時、一人の若者が近寄ってきて、ボウルの小銭をつかむと何も言わずに立ち去ったが、ナンは追いかけようとはしなかった。腹が立たないのだろうか? そう聞くと、彼はにっこり笑って言った。「全然。お金はありますから。神のおかげです。お金は誰にも必要なものですし、あの若者がお金に困っていたのなら、それでいいのです」
この寛容な答えと態度こそ、波乱万丈の人生を通じてナンを支えてきたものだ。
2001年11月4日、ナンは持ち物すべてを手押し車に積みこむと、生まれ故郷のルーマニア東南部、黒海沿岸のコンスタンツァから3千キロ近く離れたエルサレムを目指した。ポケットには234ドル。その巡礼の旅は、沈黙の修行で自らに課した使命だった。「3年半の間、一言も話しませんでした」。旅の途中で出会った人々とも筆談か身ぶり手ぶりで意思の疎通をはかったという。
旅は冬が迫るにつれて厳しさを増した。「ルーマニアから南に進んだのですが、山の天気は寒さが厳しく、毎日雪が降りました」
夜はテントで過ごしながら、紆余曲折の末、トルコからシリアを抜けてヨルダンに入り、エルサレムまでわずか数キロとなった時、彼は足止めされた。ヨルダンとイスラエルとの対立のために、イスラエルへの渡航が不可能になったのだ。
そこで旅程を変更し、シナイ半島を徒歩で横断してエジプトに向かうことにしたナン。「疲れたら眠りました」と、ナンは砂漠横断の旅を思い返す。「三つ星でも四つ星でも五つ星でもなく、数えきれないほどの星の下にあるのが私のホテルだったのです」
9ヵ月間歩き続け、とうとうカイロに到着。「ピラミッドにも、アレクサンドリアにも、王の谷にも、ルクソールにも、アスワンダムにも行きましたよ」
証拠がなければ、とてもこんな話は信じられないだろう。ところが、ナンはずっと日誌をつけていた。ほとんどはルーマニア語だが、ところどころに道中で出会った人々からのメッセージがアラビア語や英語、アラム語で書きこまれている。たとえば、「私はエジプト人医師です。ステファンさん、エジプトにようこそ。あなたは大した人物です。こんなに長く、困難な旅をして、多くの国を徒歩で訪れるとは。神のご加護がありますように。ドクター・サミール」といったように。
のべ5千キロを歩いた後、飛行機でルーマニアに戻ったナンは、修道院に入った。その2年後、念願だったエルサレム訪問を飛行機でなしとげる。03年の新聞記事では、エルサレムの教会で、黒の修道衣と帽子姿のナンが聖具を掲げている。
そして2014年、ナンは英国にやってきた。「英国の社会福祉が目当てだったのではなく、働いてお金を稼ぐためです。まともな暮らしをしたかった……私は学ぶことが大好きです。気持ちは若く、身体は10代と変わりません。それに、自由な精神の持ち主です」
昨年はマンチェスターのチャリティマラソンに、ビッグイシューメンバーとして出場し、10キロを42分以下という好成績でゴールした。
そろそろヨガショーを再開する時間だ。その後はビクトリア駅でビッグイシューの販売がある。ジングルベルに似たメロディにあわせて「ビッグイシュー、ビッグイシュー、サンキュー、ビッグイシュー」と口ずさむと、ナンはにっこり笑ってみせた。

『ビッグイシュー・ノース』
●1冊の値段/2ポンド(約352円)で、そのうち1ポンド(約176円)が販売者の収入に。
●販売回数/週刊
●販売場所/リバプール、マンチェスター、シェフィールドなどイングランド北部

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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