今月の人

松村政晴さん

居酒屋を開く夢を抱きながら、今日もこつこつビッグイシューの販売を続ける

松村政晴さん

「物を売って、お客さんからどうもありがとうってお礼を言われたのは初めてですよ」。ビッグイシューを売ってみて一番驚いたことだと話す松村政晴さん(54歳)は、昨年9月から販売を始めた。それまでさまざまな仕事を経験してきたが、お客さんにお礼を言われたことはなかったという。
松村さんの職業生活で最も長い期間携わったのは料理を作ることだった。しかも料理のキャリアは小学3年生にさかのぼる。小樽で生まれた松村さんは小学生の時に両親とも病気で半身不随となり、2歳上のお兄さんと一緒に親戚に預けられた。しかし、よその家では観たいテレビを観られないので、自宅に戻り自炊することに決めた。当時、12歳年上のお姉さんが何かと生活の面倒をみてくれたという。高校中退後、小樽市内の飲食店に就職し、和食の調理場で働いた。その後、居酒屋勤務に変わり、さらに札幌へ移り、雉料理店に勤めた。朝9時から夜12時までの激務をこなしていたが、兄弟子とけんかし小樽へ戻った。
その頃、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒットでディスコがはやり、20歳の松村さんはディスコのウェイターになった。「その頃けっこうもてましたよ」と振り返る。新しい曲が出たらまず振り付けを覚え、お客さんに披露する。朝8時から5時までは喫茶店、夜6時から12時まではディスコで働き、多忙を極めたが仕事も遊びも存分にやった。しかしブームが去り、ディスコは閉鎖、喫茶店も給料不払いが半年続き、見切りをつけた。
その後、小樽市内のスナックで2~3ヵ月働いた後、飲食業から土木業に転職する。ケーブルの配線工事に携わり、月給はスナック時代の10万円から一気に30万円に上がった。「値段も見ないで服を買うようになった。貧乏人が急にたくさんお金を持つとバカになるよ」。そんな生活が3年続いたが、喫茶店の求人広告を見て、再び飲食業に戻った。3年間にオーナーが3人代わったあげく、閉店となり失業した。
当時、借金も抱えていたので、神奈川へ行き、バンパーを作る工場で期間労働者として半年間働いて完済した。しかし、その間病気で一ヵ月入院したこともあり、北海道へ戻る。お姉さんもお兄さんも既に結婚していたので、札幌のパチンコ店に住み込みで働き始めた。そのうち、知人の紹介でスナックの店長として雇われ、従業員を統括するようになった。しかし、中間管理職のように板挟みになることが多く、うつ病を患い、3年で辞めた。本格的なホームレス状態の始まりである。この時30歳を過ぎていた。辞める時、従業員たちから、またスナックをやるなら自分たちも一緒に店長のもとで働きたいと言われたという。
その後、カジノバーのサンドイッチマンとなり、1日7000円で土日も休まず働いたのでアパートに住めるようになった。10年続けたが、バーもすたれ、再び職を失う。しばらくホームレスをやっていたが、高齢者専用下宿の調理担当として雇われ、アパートにも入居できた。ここで薄味料理の作り方を覚える。5年間働いたが、社長が代わったり、アパートの老朽化などの問題も重なり、路上生活に戻った。
ビッグイシューのことは前から知っていたが、実際に売れるのか半信半疑だったという。初日20冊売れたのでこれはいけると思った。最初「大変ね」と言って1冊買い、「おもしろかった」と言い次号を買いに来るケースが多いという。「手伝ってあげる」と言って、若い人に声をかけてビッグイシューの説明をしてくれる女性客もいた。暑い時には冷たい飲み物、寒い時には温かい飲み物をいただくこともある。忘れられないのは、サラリーマン風の男性が1冊買った後、手持ちの小銭をかき集めて「立ち食い蕎麦でも食えるべ」とくれたことだ。
将来、居酒屋を開いて「おいしい」と言われる喜びをまた味わってみたいという。年を重ねるごとに、人と話したい気持ちが強くなってきた。居酒屋でおいしいものを作りつつ、お客さんと話をしたいという夢を抱きながら、今日もビッグイシューの販売をこつこつ続けている。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

今月の人一覧