販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
後東修三さん
放浪の末にたどり着いた場所。 出会いと亡き両親への想いが、自分を支えている
地下鉄日比谷駅のA2出口から出るとすぐ目の前にJALプラザの入っている有楽町電気ビル南館がある。その付近で、朝の10時から午後3時までビッグイシューを販売しているのが、後東修三さん(65歳)だ。
その日、取材のために後東さんがいる販売場所へ行くと、背の高い外国人の男性が傍らに立ち、二人で親しそうに話している。その間にも、何組かのお客さんが雑誌を買っていく。
実はその外国人のデイモン・ファリーさんは、後東さんの友人なのだという。二人が出会ったのは、今から1年半前。よく行く麻布十番のスーパーマーケットの前に座っていた後東さんに、ファリーさんの方から話しかけたのだそうだ。最初の何回かは、挨拶だけ。
そのうちに、二人はスーパーの前で話をするようになる。後東さんお気に入りの野球チームの話、橋の下にある住居の話。そのようにして、二人は友達になった。今では、週に2、3回の頻度で会うほどの仲だ。
ホームレス歴20年という後東さんだが、ビッグイシューの販売者になってからは自分自身がずいぶん変わったと話してくれた。
「ビッグイシューを売る前は、お金が入ればすぐに使い切ってしまったし、性格は荒っぽかったし、言葉も汚かったね。今は、なるべく節約して無駄なお金は使わなくなったよね。言葉遣いは、お客さんから教わったようなもので、お客さんが丁寧に接してくれるから、僕も『いらっしゃいませ。ありがとうございました。気をつけて帰ってくださいね』と言えるようになったんです。今は笑顔でいる時が多いし、幸せだなと思う」
後東さんは、富山県で5人兄弟の末っ子として生まれる。5歳の時に父親を亡くした。その後、母親はひとりで5人の兄弟を育ててくれた。
中学を出るとすぐに、大阪に出て「丁稚奉公」として働いたが、それではいくらも稼げなかったので、調理師になろうと、故郷に近い金沢のおでん屋に住み込みで働くことにした。そこで魚のおろし方や包丁の使い方など調理の基本を学んだ。
22歳の時に、母親が亡くなった。「うちは、おふくろがいたから兄弟がつながっていた感じだったから。おふくろがいなくなったら、帰ってもおもしろくないし、兄弟が生きてるかどうかもわかんないよ」。そういう後東さんは、それ以来一度も故郷には帰っていない。
自衛隊に入隊すれば調理師免許がもらえると聞いた後東さんは、23歳から2年間、自衛隊に所属することとなった。ところが、2年経っても免許はもらえず、もうあと2年いないとだめだと言われて「免許なんかなくても、腕で勝負すればいい」と退職する。
その後は、和食屋、ラーメン屋、焼き肉屋、居酒屋などのさまざまな飲食店で働いた。そのうちに、飲食店よりも、建設現場で働いた方が稼げると思い、飯場(建設現場の宿泊所)で寝泊まりし、土方として職場を転々としながら働いた。
「ひとつの職場には、せいぜい2、3ヵ月くらいしかいなかった。もともと旅をするのが好きだったから、北海道から広島まで、無一文で旅をしたり、仕事をしたりしながらいろんなところに行ったね。腰を落ち着けるっていうのが、性に合わなくて、旅好きの本能かもしれないね」
今住んでいる麻布十番には、数年前に流れ着くようにやってきて、ホームレスとして暮らしていたけれど、今度はお金を貯めて旅がしたいから働こうと思ったという。そのことをファリーさんに相談すると、ビッグイシューを紹介された。海外に住んでいた頃からビッグイシューを知っていたからだ。ちなみに、ファリーさんは後東さんと出会ったことで、ホームレス支援の社会運動「保留コーヒージャパン」(※)を始めたという。
それから3ヵ月たった今でも販売者を続けているのは、2年後の春に開通する予定の北陸新幹線に乗るためだ。「それに乗れば富山まで2時間で行ける。この年になるとあと何年生きられるかわからないから、生きているうちに両親の墓参りがしたいんだよ。それまではこの仕事を続けるよ」と言って、後東さんは、持っていた新聞記事の切り抜きを大事そうに見せてくれた。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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特集宇宙と生命。― 呼応する身体の時間