販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

合原知幸さん

バックナンバーの在庫を充実させ 固定客をつかむ工夫が成功。 去年の不運は忘れて、アパート入居を目標にしたい

合原知幸さん

「住み慣れた故郷を後にして、福岡の地にやって来たのはホームレスになるためだった」と、合原知幸さん(41歳)はこれまでの人生を振り返る。
北九州市の工業高校を卒業し、正社員として東京の会社に就職したものの、人づき合いが苦手だったことから人間関係につまずき、21歳のときに帰郷した。時はちょうどバブル経済が崩壊した91年のこと。就職氷河期と呼ばれた時期とも重なり、その後は定職に就けず、アルバイトをしたり、自動車組み立ての季節労働者として名古屋で働いたりもした。
その頃知り合った先輩に誘われ、警備会社に入社したが、高校時代に悪くした腰痛がひどくなった。  「働くのは嫌いじゃないけれど、働けない状態のまま借金を重ねてしまった。35歳の時に名古屋で初めて路上生活を経験した。一度は北九州市の実家に戻り、親元でニート状態を続けたけれど、事情でそれもかなわなくなった」
両親から2千円をもらい、高速バスで福岡の地へ。知り合いがいる北九州市よりも、合原さんは福岡の街を選んだのだ。
日本経済が低迷する中でも、福岡市は比較的元気な街だといわれる。人口148万人を数える九州最大の街で、政令指定都市の中でも人口に占める学生の割合が京都に次いで多いため、「若いまち」というイメージもある。また週末ともなると、九州各地から若者たちが遊びにやってくる。その中心が天神地区だ。
合原さんが販売者として天神地区に立つようになったのは10年12月、福岡に移ってきてすぐのことだ。先輩販売者の姿を見て、「そのまま引き寄せられるようにビッグイシューを手にした」のだという。
サポーターの助けもあって、販売は徐々に軌道に乗った。販売冊数も、多い時には1日に50冊以上をさばいたこともある。販売者になって、すでに1年と少しが経過するが、「ここに立たなかったのは3日間だけ」と胸を張る。
「バックナンバーが1日に20冊売れたことがあった」ことから、合原さんは、その品揃えを充実させていく。今では「全国の販売者の中でも一、二だと思う」という在庫数だ。バックナンバーの表紙写真を一覧できるよう手作りして、お客さんがすぐに選ぶことができるような工夫もしている。プラスチックケースの中に号数ごとに整理して保管し、お客さんの要望に即応している。
販売者になりたての頃から、道行く人に顔を覚えてもらおうと、仕入れの時間を除いて、朝7時半から夜7時半まで、同じ場所に立ち続けた。雨が降れば、ひと抱えあるバックナンバーを持ち、すぐ横の地下街へのアプローチに待避する。日数を数えるごとに、バックナンバーを買い求める常連のお客さんも少しずつ増えていった。
やっと春めいてきた昨年3月、「このままやっていけば、路上生活も早めに切り上げられそうだ」と、希望が見え始めた時、東日本大震災が東北地方を襲う。
地元新聞社と福岡大丸が入るビルの前で販売する合原さんの、歩道を挟んだ向かい側で募金を呼びかける人たちが立った。
「日本全国が津波に驚いたのだから仕方ない。自分以上に苦しんでいる人たちもいるのだ」と思いながらも、己の春が遠のくのを感じた。
そして、震災5日後の3月16日、九州新幹線の全線開業とともに完成した新博多駅ビル(JR博多シティ)のテナントとして入店した阪急百貨店がオープン。天神地区の百貨店も軒並み売り上げが減少したのだが、福岡大丸前でも明らかに「人通りが少なくなった」。いうまでもなく販売数は落ち込んだ。それでも腐ることなく、合原さんは1日約12時間、ビッグイシューを手に販売し続けた。
販売を終えて、食事を済ませた後の寝泊まりには、インターネットカフェを利用する。シャワーを使っても、20冊という1日の販売目標を達成すれば、少しだけ貯金もできる。 合原さんにとって、インターネットカフェ生活の難点は「身体をまっすぐに伸ばして眠れないこと。持病の椎間板ヘルニアには一番よくない」のだという。
「去年は不運に泣かされたけれど、もうそれはどうでもいい。最悪の時は過ぎたと思って、前向きにならないと。今年の目標はアパートへの住み替え。それが達成できなくても、自立へのステップ、次の足がかりにできる1年にしたい」と、しっかり前を向いて笑顔を見せてくれた。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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