販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

丹羽俊輔さん

舞台の仕事に復帰するため、早くアパートを借りたい。 販売者仲間とのシェアも考えている

丹羽俊輔さん

東京メトロの後楽園駅と都営地下鉄の春日駅が交わる敷地に建つ、文京シビックセンター。文京区の区役所も入る地上26階建ての建物の角でビッグイシューを販売しているのが、丹羽俊輔さん(49歳)だ。太陽が強く照りつける夏の真昼に「丹羽さんですか?」と声をかけると、人懐っこい笑顔を顔いっぱいに浮かべながら「はい」と涼やかで上品な声色が返ってきた。
おっとりとした口調も、幼い頃から日本舞踊の発表会などに親しんでいたという生い立ちを聞けば納得。松竹歌劇団の女優だった母の影響は強かった、と丹羽さんは語る。
「自然に演劇に魅了されていきました。自分のお金で初めて観たのは、高校生の時。帝国劇場で観た蜷川幸雄さん演出の『近松心中物語』を、今でもよく覚えています。腰痛で途中降板した平幹二朗さんの代役で、本田博太郎さんが主演を務めた初日でした」
うれしそうに舞台鑑賞の思い出を語る、丹羽さん。高校卒業後は東宝芸能学校へ進み、長い脚本家人生が始まった。舞台の脚本や演出助手として、忙しくも充実した20代をすごした。風向きが大きく変わったのは、阪神大震災のころ。母が両足股関節の手術をすることとなり、家庭内に介護の手が必要になったのだ。
「舞台の演出は家を空ける時間も長いので、家でできる仕事を増やそうとVシネマのシナリオを書くようになりました」
母ひとり、子ひとり。目黒の自宅で仕事と介護を両立させる生活を、10年ちょっとがんばった。緊張の糸が切れたのは、09年の暮れ。6月に、仕事を犠牲にしながら介護し続けた母がこの世を去った。追い討ちをかけるように、取引先3社が相次いでつぶれる。
「1社は計画倒産、1社は夜逃げ。もう1社は完全な倒産でした」
だが、その後のことはあまり覚えていないと、丹羽さんは明かす。目黒の実家を引き払って不動産業者に何か言われたことはうっすら思い出せるという。11月29日から放送が始まったドラマ『坂の上の雲』の第1回を観たのも覚えている。だが、時間感覚もあいまいなまま、気がついたら月日がすぎていた。
「後から『うつ病だったんじゃないか?』と言われて『そうかな』と思っているのですが、記憶が混沌としているんですよね。思い出せる風景の断片などから、東京近郊の1都6県をふらふら歩いていたようです。相当歩きまわっていたんじゃないでしょうか。80キロ以上あった体重も、62~63キロに減りました。モノを食べていた記憶がなく、水を飲んでいたことしか思い出せないので、体脂肪を燃やしながら生きていたんじゃないかと思っています。ふっと『星がきれいだな』という思いが心に浮かんだのが、3月でした。同時に『ああ、よかった』と。何がよかったのかは、わかりません。でも何かの呪縛から解けたような感じでした。東京の郊外にいたので、多摩川沿いにずっと歩いて都心部まで戻ってきました」
とはいえ、住む家もなく、財産もない。服装も持ち物も、すべて見覚えはなかった。 「どうしようか考えました。生活保護の申請をするかについても悩みましたが、考えたあげく、自分の力でなんとかしようと決めました」
販売者になったのは今年の5月後半。新宿での炊き出しに並んでいるところを、事務所のスタッフに声をかけられたのだという。
「病気のせいとはいえ、流された生活を送っていたわけです。自分の力で稼げるチャンスがあるのなら、やってみないと申しわけない」
あえて頭で考えることをやめ、「ビッグイシュー、売ってます」と声に出してアピールし続けて3ヵ月。顔なじみも増え、コンスタントに25部程度売れるようになってきた。
「今は、毎日の売上を30部まで伸ばしたい。場所柄、売れる時間帯や買っていく人もほぼ決まっているんですよね。午後1時を過ぎると4時すぎまでほとんど人が通らないんです。だからその時間帯は公園などで、原稿用紙に向かっていることも多いです」
連絡先がわかる範囲でかつての仕事相手にも連絡を取り、脚本家として再出発するための努力を重ねている。
「お金を貯められるめども立ってきたので、脚本募集の情報が載る『月刊公募ガイド』を買おうと思っています。舞台の仕事に復帰するためにも、早くアパートを借りたい。販売者仲間とシェアすることも考えています」
きらきらとしたまなざしで、未来図を語る丹羽さん。途中で休憩をとりながらも朝8時半から夜8時半まで平日は毎日、文京シビックセンターの角に立っている。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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