販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

岩崎敏弘さん

やけくそな気分で、夜行バスに乗って東京へ、 気がつくと所持金ゼロに。 いつか故郷に帰って姉を安心させたい

岩崎敏弘さん

JR渋谷駅東口を出て、宮益坂下交差点を渡りきると、目の前に宮益坂の入り口が現れる。ケヤキ並木の続く緩やかな勾配の坂道を青山通りに突き当たるまでひたすら登っていくと、宮益坂上の交差点にたどり着く。渋谷駅からは歩いて5分もかからないその場所で、ビッグイシューを販売しているのが、岩崎敏弘さん(38歳)だ。
「今年の3月から始めたばかりで、ようやく1ヵ月の研修期間を終えて赤に変わりました」と言って、ビッグイシュー販売者が首から下げることになっているIDカードをうれしそうに見せてくれた。IDカードは研修期間中は白で、研修を無事終えると赤に変わるのだ。
 まだまだ新人の岩崎さんだが、それまで2年間ほど続けてきた路上での生活よりも、販売者になってからの方がずっと楽しいと言う。
「今までは炊き出しをしているところを探して歩きまわっていましたが、今は自分の好きなものを買って食べられますからね。青山通り沿いには青山学院大学や国連大学なんかがありますから、そこの学生さんや働いている人たちがよく買いに来て常連さんになってくれたり、最新号が出るとわざわざ自転車に乗って来てくれるお客さんがいるので励みになります」
 岩崎さんは2年ほど前に上京するまで、生まれてからずっと兵庫県にある実家で生活していた。父、母、祖母と4歳年上の姉の5人家族でどこにでもあるごく普通の家庭だったという。
「家庭に問題といえるようなことは特にはなかったと思う。ただ、林業をしていた父親が毎晩のように飲んで帰ってきて、母親としょっちゅうケンカしている声が聞こえてくるのはつらかったですね」
 中学を卒業すると、自宅から通えるアルミサッシを製造する会社の社員として就職。 「会社の中では僕が一番若かったこともあって、先輩たちが丁寧に仕事を教えてくれてずいぶん可愛がってもらいました。16歳から23歳までの7年間そこで働いたのですが、ある日突然会社が倒産してしまったんです」
 その後すぐに、最初の仕事と同じような製造業の会社に再就職するが、33歳の時に父親が、がんで他界。その2年後に母親も父親と同じ病気で亡くなった。
「母親が倒れてから、亡くなるまではたったのひと月でした。会社が終わってから毎日姉と二人で病院に付き添いましたが、医者にはもう長くはないと宣告されていて。その頃には祖母も亡くなっていたので、母が亡くなって5人いた家族は姉と僕だけになってしまいました」
 両親を相次いで亡くし、会社での人間関係も次第にうまくいかなくなり、ついに12年間勤めた会社を辞めてしまう。
「会社を辞めようと決めるまで1ヵ月近く無断欠勤を続けました。いけないことだとはわかっていたのですが、朝目が覚めるとどうしても会社に行くことができなくなってしまって。それで、自分から電話して辞めることにしたんです。会社を辞めた後、半年くらいは何もやる気が起きなくて、家でダラダラとテレビを観たりして一日をやり過ごすという感じでしたね」
 前の会社を辞めて半年後、いつまでもこんな生活を続けていてはいけないと思い、ハローワークで見つけた加工業の工場で働くが、わずか1年足らずで、リストラされてしまう。 「今考えると、当時はやけくそな気分になっていた。とにかく東京に行って遊んでやろうと思って、現金30万円を持って夜行バスに飛び乗りました」
 ところが2ヵ月もしないうちに、所持金はゼロに。帰りのバス代5千円すら払えなくなる状況に陥っていた。どうしてそんなことになってしまったのか、自分でもわからなかった。
「残金ゼロになってからは本当にどうしていいかわからなくて、東京駅や新橋辺りをぶらついて何も食べずに水だけで過ごすという日が1週間近く続いたと思います」
 さすがにこのままでは死んでしまうと思い、近くの交番に助けを求めた。そこで新宿に行けば炊き出しをやっていると聞き、1週間ぶりに食べ物を口にすることができた。それ以来、新宿の公園で寝泊まりして現在もそこから出勤している。
 ビッグイシューと出合ったのは、今年の2月。夜回り活動をしていたスタッフに『路上脱出ガイド』を渡されたのがきっかけだ。
「外で寝ているのはだいぶしんどいですからね。少しでもお金を貯めて今の生活から抜け出そうと思って始めたんです。月に一度、兵庫にいる姉に電話をすると僕のことをいつも心配しています。だから、いつかは故郷に帰って姉を安心させたいと思っているんですよ」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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