販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

松本義則さん

街角に立って初めて、人のありがたさや世間の厳しさを学んだ

松本義則さん

「皆さんに『おはようございます』って挨拶したいから、朝の通勤ラッシュから必ず売場に立つようにしています」

そう話すのは淀屋橋の“ヒゲじいさん”こと松本義則さん。真っ黒に日焼けした顔に、真っ白なヒゲがトレードマークだ。今年で65歳になるが、「ほとんど休憩もとらず、日陰にも入らない彼の仕事ぶりは真似できない」と販売者仲間から一目置かれる存在である。お客さんに対しても釣銭がない時には、「お代はいつでもいいですから」と言うし、道に迷っている人がいれば地図を片手に積極的に声をかけ、案内役も努める。そんな人柄のせいか、松本さんには現在、かなりの固定客がついている。

松本さんがホームレスになったのは7年前。最後の仕事場となった鉄工所では溶接工として6年ほど勤めた。だが、代替わりした社長の息子とどうしても折り合いがつかず、後先を考えず会社を飛び出した。当時、すでに58歳になっていたが、それまでもホテル関係などいくつかの会社を渡り歩いていたため、「どうにかなる」と思っていた。「苦労とか、そういうものを甘っちょろく考えていた」と振り返る。その後、仕事はなかなか見つからず、蓄えはアッという間に底をついた。しばらくは兄弟や友人に経済的な支援も受けたが、「人に頼ってばかりはいられない」と一時しのぎのつもりで野宿生活を始めた。思いとどまるように諭す友人には「すぐに元の生活に戻るから」と気楽に応対したが、結局、テント生活は5年にも及んだ。「最後は100円のパンも買えない状態でした。ホームレス仲間には苦労した人が多いけど、僕の場合は気ままな生活をした自分がすべて悪い。特に恨む人がいるわけでもないし、自業自得でした」と言う。

そんな松本さんが変わったのはビッグイシューの販売者になってからだ。体調が悪くて休むと、「しばらく見なかったけど、どうしとったん」とお客さんが声をかけてくれる。「彼女を抜きにして今の自分は語れない」というOLの“Mちゃん”には、街頭での立ち方や服装、お客に対する喋り方までさまざまなアドバイスを受けた。「いろんな人の期待を裏切って、とことんまで落ちた自分を淀屋橋のお客さんたちは本当に温かく迎えてくれたんです」

凍えるような真冬やカンカン照りの夏日に街頭に立ち、1~2時間経っても雑誌が売れない時は、時間がとても長く思える。「そんな時、ああ100円の価値ってスゴイなあと思うんです。今までこの100円の重みを忘れていたなあって。僕はこの歳になって初めて人のありがたさとか、世間の厳しさ、人としての行いをお客さんから教えてもらった」。松本さんは明るく微笑んだ。

7月下旬には、スウェーデンで開催されたホームレスワールドカップに参加した。

「もともとサッカーのサの字も知らないし、1日2試合は老体にはキツイはずなのに、不思議とコートに立つと疲れを忘れてね。どこからこんなエネルギーが出てくるのか自分でもわからなかった」。忘れられないのは、0勝10敗で迎えた最終戦。同点のままPK戦にもつれこみ、松本さんは4人目のキッカーとして登場。すでに足に肉離れをおこしていたが、「もう足の1本ぐらい折れても構わない」と思いっきり蹴ったボールがキーパーの股間の下を抜けてゴール。それが決勝点となり、日本は最終戦で貴重な1勝を上げた。「あんまり実感がなかったんだけど、振り返ったら日本の応援席は皆、抱き合って泣いていてね。僕も後で一人でボロボロ泣きましたよ。ほんとに、お金では買えない感動をさせてもらった」

帰国すると、肉体の疲労と時差ボケにもかかわらず、翌朝にはいつもの売り場に立った。「実は、スウェーデンにいる時から淀屋橋の売り場に早く戻りたくてね。僕にとっては、ココが一番ホッとする場所なんです」。今では、親しいお客さんとカフェでお茶をしたり、お酒の席に誘われることも珍しくない。サラリーマンやOLなど若い人と触れ合うようになったからか、最近、ある心境の変化も出てきた。「この歳になって笑われるかもしれないけど、もう一度、恋がしたいと思うようになってね。若い女性客からはおっちゃんやったら大丈夫!って言われています」と照れくさそうに話す。

松本さんは最後にこう話してくれた。「お世話になっている一人ひとりへの恩返しは、1日でも早く自立すること。今度ばかりは期待を裏切りたくない」。松本さんは今、淀屋橋の街頭に立つこの仕事を最後の仕事にしようと思っている。
(12号より)

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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