販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

渡嘉敷信男 さん

仕事があれば、人は人として認めてくれる。今は自分の存在意義を見つけられたよ

渡嘉敷信男 さん

目の前に現れたのは中折れ帽をかぶり、白のジャケットにベストといういで立ちのガッシリとした体格の男性。街中ですれ違えば、どこぞの紳士と思わせるような雰囲気を漂わせたこの人は渡嘉敷信男さん(57歳)。今年8月から新宿・小田急百貨店前で、朝8時~夕方5時まで本誌を販売するベンダーさんだ。
そもそも渡嘉敷さんがホームレスになったのは45歳のとき。仕事を求めて沖縄から上京するも、最初に就いたとび職の仕事は、会社が倒産し、あえなく失業。行くあてもなく、辿り着いたのが新宿公園だった。

「ハローワークにも行ったんだけどね。年齢的なことと、吃音で人とのコミュニケーションに少し問題があってさ、字も読めないから、何ひとつ紹介されなかったんだよ。でも、親兄弟もいないし、家族もないし、自分の人生がどうなろうとよかった。ひとりならなんとかなる。まぁ、いいさ、と思ったんだよね」

とはいえ、残飯をあさったり、拾い食いをしたり、そんな生活は簡単なものではなかった。そのうえ、あまりの貧乏さに、住居もテントから段ボールへと変わっていった。
「ホームレスってさ、それだけでバカにされる。人はさ、仕事を持っていないと誰も相手にしてくれないんだ。人間ってそんなもんだよ」

そんな渡嘉敷さんの運命を変えたのは、1年以上前のこと。新宿中央公園の炊き出しに並んでいたとき、本誌スタッフからベンダーにならないかと誘いを受けたのだ。

しかし、接客経験もない、人とのコミュニケーションが苦手、売れるのか、続けられるのか…。頭の中にはいろんな思いが巡った。考え続けているうちに季節は巡り、1年という年月が経った。渡嘉敷さんはその長い年月をかけて、「ビッグイシューを売る」という決心をしたのだった。
「だってさ、悩んでいたって、結局は食べていかなくちゃいけないからね。それに仕事を持てば、周りの人もひとりの人間として認めてくれると思ったからさ」

こうして始まったベンダー生活。今は1日で15冊は売れるようになり、ひとりだという孤独感も消えた。
「実はさ、さっき親も兄弟もいないなんて言ったけど、実の母親は俺が生まれてすぐ、戦争で亡くなったんだ。その後、継母がきたんだけど、うまくいかなくて、若い時に家族と縁を切っちゃった。だから誰もいないって言ったの。それからは孤独でさ。うちの母ちゃんは美人だったから、写真を見る度に“この母ちゃんが生きていてくれていたら”って何度も泣いたよ。でもさ、今はこうして仕事がある。そして一緒に頑張る仲間がいる。自分がこの世に生きているってことを感じることができるんだよ」

思い返せば、中学卒業後、下水工事の仕事も、警備の仕事も、大工の仕事も続かなかった。理解してくれる友達もできなかった。でも、今、この仕事について自分の未来が続いていくような気がする。確かに1日中立っていると身体がキツイ。持病のヘルニアも容赦なく痛む。「痛い、痛い」。渡嘉敷さんはそう言いながらも、最新号を事務所に搬入するときは、100冊8キロの束を、他のメンバーと一緒にトラックから2階の事務所まで進んで運ぶ。「渡嘉敷さん、腰が悪いから休んでてください」。そんなスタッフの言葉もお構いなしに、これぞ自分の仕事だとばかりにトラックから事務所へ、事務所からトラックへと忙しそうに行き来する。

「昔のことなんて辛すぎて覚えちゃいないよ」
そう言う渡嘉敷さんの心の中には、新たな人生を生きようという強い気持ち、自分の役割、人生をまっとうしようとする気持ちが芽生えている。
「これから冬だから寒いだろうな。でも、人間だから大丈夫。人間ってのはそう簡単に死なないんだよ。ずっとホームレスで耐えて、耐えてやってきたから、なんだって頑張れる。それに、最後は誰でも死んでいくんだよ。要は目の前の仕事を頑張るだけさ」

そんな渡嘉敷さんのもとへ、ひとりの若者がやってきた。「おじさん、一部ちょうだい」。商品とお金の受け渡しを終えると、若者が言った。「頑張ってね」。そんな言葉に渡嘉敷さんは笑顔になる。

「センキューベリーマッチ!」この言葉が渡嘉敷さんの決まり文句。吃音だって関係ない。この言葉さえあれば、気持ちは伝わる。だから今日も渡嘉敷さんは「センキューベリーマッチ」と言うために街角に立つ。いつかはアパートを借りて、路上生活者を抜け出せればという想いを抱きながら。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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