販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

田中光彦さん

大好きだったスロットよりも、ビッグイシューにハマってる。

田中光彦さん

若者文化の発信地として賑わい、ひっきりなしに人が行き交うJR中野駅。その北口のガード下に、田中光彦さん(37歳)は今年5月下旬から立っている。朝9時から夕方4時までの間に10冊前後が売れていく。本音をいえばもう少し部数を伸ばしたいところだが、血圧が高くて無理が利かない。昨年の秋頃までは渋谷で売っていた。ところが音信の途絶えた息子の身を案じた福島の両親が捜索願を出し、半年近くを実家で過ごすことになった。「だけどやっぱり東京が恋しくなって、ビッグイシューに戻ってきちゃった。また渋谷でもよかったんだけど、あそこは発売日だけポンポン売れて、だんだん部数が落ちていく」。それよりも、「毎日コンスタントに売れる」中野を再スタートの地に選んだ。

顔なじみのお客さんも増えつつある。先日も、見覚えのある高校生5人が「取材させてください」とやってきた。聞けば、ビッグイシューのことを学校で宣伝したいという。「ひとりでもいいから、友達がほしい」と切望する田中さんは、こうやってお客さんと話す時間がとにかくうれしくてたまらない。

福島の農家に生まれ、姉と妹に挟まれて育った田中さんは幼い頃から物静かで、友達をつくるのが得意ではなかった。外で遊ぶよりも、家でテレビを見て過ごすことのほうが多かった。地元の高校を卒業してしばらくは家の農業を手伝った。「米も野菜も一所懸命つくったけど、全然お金にならなかった」。そこで外に出て少しでも稼ごうと、20歳のとき、叔父の紹介で地元の温泉旅館に就職した。「いわゆる番頭さんですよ。昼過ぎには出勤して配膳から布団敷き、食器洗いまで何でもやった。一番大変なのは風呂掃除。全部終わる頃には夜中の12時、1時を回っていた。こんなに働いて時給500円はいくら何でも安すぎますよね」

働きに見合った給料をもらえる仕事を求めて、職業安定所に足を運んだ田中さんは自衛隊にスカウトされた。田中さんは小柄なため規定の身長に届いていなかったが、担当者は背伸びしてパスさせてくれた。しかし、連日の訓練は想像を上回るハードな内容だった。「敬礼、回れ右、ほふく前進。今でも身体が覚えてるよ。3年間は頑張ってみたんだけど、どうしても体力がもたなかった」。宮城、秋田、横須賀、市谷と各地に配属された田中さんだったが、辞めた後は故郷の福島に戻り、両親に親孝行もした。

その後、地元のパチンコ店に就職したというので、趣味も兼ねていたのかと思いきや、「玉を自分の力で動かせないパチンコより、自分で合わせた実感を得られるスロット」派なのだとか。「どっちみち従業員は自分の店ではやれないので、よその店に行ってはスロットに注ぎ込んでた。月に30万円もらって、15万円が消えていく。そんな生活でした」

ところがあるとき、台を移動中に腰を痛め、店を辞めざるを得なくなった。福島ではなかなか次の仕事が見つからず、東京に望みをつないだ。しかし現実は厳しかった。職業安定所に通い、新聞の求人欄に目を走らせ、受けた面接はことごとく落ちた。

そしてちょうど3年前、途方に暮れて新宿の小田急百貨店前を歩いていた田中さんの目に、ビッグイシューを売る男性の姿が飛び込んできた。男性から話を聞き、自分のペースで働けるスタイルに魅力を感じた田中さんは、翌日からさっそく販売を開始。平日はビッグイシューを売り、週末は「引っ越し作業の手伝いや、工場でコンビニ弁当に野菜なんかをトッピングするアルバイト」に精を出した。

それでもアパートの家賃を捻出するまでには至らず、今もまだファーストフード店でテーブルに突っ伏して仮眠する生活が続いている。「路上よりは安全だけど、足を伸ばして眠れないから疲れが取れないんだよね。ネットカフェは1泊1000円以上もするから、奮発しても2週間に1度くらいしか泊まれない」という。

仕入れ先の事務所までは雨の日以外、徒歩で行く。少しでも貯金に回したいからだ。「渋谷で売ってた頃はスロットにハマって、パンクしたことがある。仕入れができなくなるほどつぎ込んでしまった。でも今は、見に行くことはあっても絶対にやらないよ」

今度の正月、高速バスで実家に帰るお金をコツコツ貯めているそうだ。捜索願が出されたときと同じように、また実家に帰ったまま、東京へ戻ってこなくなるのではないか。そう尋ねると、「それはないね。自分にとってこれ以上の仕事はないから。ビッグイシューにすっかりハマってるんだよね」という、明るい返事が返ってきた。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

この記事が掲載されている BIG ISSUE

100 号(2008/08/01発売) SOLD OUT

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