販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

大脇勝さん

【ビッグイシューOB編】 「軒下を借りて頑丈な巣を作るつばめの精神」で販売場所に立ち続けた

大脇勝さん

大阪の京橋駅前で3年間販売を続けてきた大脇さん(64歳)が4月に販売者を卒業した。大脇さんにとって、ビッグイシューで働いた3年間は「人にも環境にも、あまりにも恵まれた」年月だったそうだ。

京橋駅周辺は、大阪でも有名な繁華街・ビジネス街。またJRや地下鉄・京阪電鉄との重要な乗り換え地点でもあり、人通りの絶えない場所だ。

「僕が販売していたのは午前7時から午前中。特に9時までの通勤時間帯は、JRから降りて京阪や地下鉄に向かう人の流れをつかむことによって数百人のお客さんを得ることができた。1日50冊ほども売れました。一番大事にしていたのは、お客さんの歩みをなるべく止めないように素早くやりとりすること。目で合図をしてすぐに新刊を抜き出せるように、300円でも800円でもすぐにお釣りが出せるようにすること。お客さんにも電車の時間があるからね」

バックナンバーのアピールや世間話などを自分からはほとんどしないのも、相手の忙しさや気持ちを汲んだ大脇さんなりの心遣いだ。

販売場所に立ち続けることを「軒下を借りて頑丈な巣を作るつばめの精神」と語る大脇さん。絶対にトラブルを起こさないように、そして朝一番には夜中の喧騒の跡に散らかったごみを掃除することも欠かさなかった。

「僕は人見知りが激しいからあまり話しかけたりはしないんだけど、近くでチラシを配っていた若い青年とも仲良くなって、今もしょっちゅうメールをもらってる。僕が風邪ひいたゆうたらさ、部屋までお見舞いにきてくれたりとか。僕の子供より若いのに、心配してくれてね」

もともと鹿児島で百姓をするつもりが、東京の日本橋で卸し問屋の仕事をするという従兄弟にくっついて19歳の時に上京。その数年後の昭和38年、まだできてまもない阪神高速の会社に就職することになり大阪へ。そこで勤めた28年間の間に結婚して二人の子供をもうけ、家も5軒買い替えた。順風満帆かに見えた人生設計は突然谷底に落ちた。

「バブルが弾けたんです。家のローンも2軒分かかえて借金ができた。もう苦しくってっていう時に女房が男をつくって出て行ってしまった。ちょうど落ち込んだ時に、悪いことが続いたんですよね。子供もまだ小さかったし、会社を辞めた退職金で借金を清算して」

平成に入り40代も終わりにさしかかった頃に、会社を退職。それからの十数年はガードマン、清掃員、カッターシャツの製造、何でもがむしゃらに働いて子供を育てた。ようやく子供が自分の手を離れてからは「もう落ちて行く一方でしたね。やっぱし自分もあかんかったね。やけになって酒の力を借りて。田舎に帰ろうかと思ったけどその時はもう親父もいなかったし。人生の中で一番谷底だったんですよ。住む場所もなくなって中之島公園をうろうろしてね」

大阪市中之島公園の炊き出しで、自立支援センターの存在を知る。そこで一時的に身をおけることになりあらためて仕事を探すが、年齢制限の大きな壁に完全に阻まれてしまった。大脇さんがビッグイシューと出会うことになるのは、それからずいぶんと日が経ってからのことになる。

ビッグイシューで得た一番大きなものは「人と人とのつながり」だったと振り返る。数メートルしか離れていな販売場所で息もぴったりにお互いを助け合ったよき相棒(同じビッグイシューの販売者)、お客さんとして出会い、いつも自分を心にかけてくれた大学の先生。毎週盛りだくさんの差し入れを届けてくれた女性客。あまり話はしなくても、必ず新刊を買ってくれたたくさんの常連客。支えてくれたすべての人にこの場を借りて感謝の気持ちを伝えたいと語った。

「この春から新しく、清掃の仕事が決まりました。京橋はすごくいい販売場所だから、誰か新しい人に場所を引き継げたらと思います。今でも昔の会社員時代の仲間と会うんです。みんなそれなりの退職金貰って身なりもちゃんとしてますけど、僕は谷あり山ありの色んな人生経験してきて、『お金はないけど楽しいや』って言ってます。この3年、何不自由なく過ごしてきたと思ってます。いいお客さん、いい相棒に恵まれてね。自分にも自信がもてた。今もう感謝の気持ちでいっぱいなんです」

これから70歳まで身を入れて働いた後には、大脇さんが思い描いている夢がある。

「海で育ったから、余生は徳島高知あたりの山奥でいい空気を吸って終わりにしたいな。子供に看取られて亡くなったら本望。そうできるようにあと5年、頑張って働きます」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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