販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

永瀬泰男さん

今年は仕事を探して、面接を受けたいね

永瀬泰男さん

高層ビルが建ち並ぶ新宿駅西口の地下道に設置された「動く歩道」の出口、三井ビル前に永瀬泰男さんは立っている。1959年生まれの46歳。04年、自分の誕生日から間もない12月に販売を始めた。その4ヶ月ほど前、永瀬さんは新宿の職安近くで寝泊まりして、教会の炊き出しで食べ物を得る毎日を過ごしていた。そんなとき、仕事や食べ物を「もらったり、おあいこに恩を返したり」していた仲間から、教会の奉仕作業として清掃や炊き出しの手伝いをしてみないかと声がかかる。そこで出会った先輩に紹介されたのが、販売者の仕事だった。元手として受け取った10冊はその日のうちに売れたが、不安はあった。

売れなければ現金収入もなく、仕入にも事欠くのは今でも同じ。使い込まれた小さいノートには、日付の下に丁寧に一画ずつ“正”の字が書き込まれている。頁をめくると、毎月1日と15日の発売日からしばらくは30冊近い売り上げがあるものの、次の発売日の4、5日前からは半分ほどに落ち込んでいるのがわかる。「波があって、カターンと落ちちゃうから大変なんですよ」

だから無駄遣いはしない。20冊売れた日は、1冊につき110円の収入になるから手許に2200円が残る。コンビニで夕食と缶ビールを1本だけ買うと500円。翌朝は、200円でおにぎりかカップラーメンを食べる。歯を治していないため固い物は避けて、昼も麺類などに200円。1日の食費はどうしても1000円はかかる。銭湯代は400円。そのなかから、売れない日の備えを確保しなければならない。

永瀬さんは、新宿西口でも仲間と融通し合って暮らしている。交通費がかかる仕入れも、二人を含めた周りの4人の販売者が交替で行く。永瀬さんが当番の日は朝一番に8時の仕入れ開始前から待っている。

井の頭公園を近所の友達と自転車で走り回って子供時代を過ごした。引っ込み思案で、卓球は好きだが勉強は好きではなかった永瀬少年。中学校の社会科見学で製パン工場に行ったのを機に、卒業後、従業員20人ほどのパン工場に就職した。兄二人姉二人の5人兄妹の一番下で、兄の子供も家にいたため、早く独立したいという思いもあった。

「パンが好きだったんだよね。食パンにあんパン、メロンパンのような菓子パンも作ってたんですよ。もうちょっとやっていればよかったんだけど、朝が早くて」

仕事は、朝5時から夜の8時、9時まで続いた。20歳までの5年ほど働いたものの、早朝からの長時間労働が辛くて「向いてない」と思って職場を離れる。職安でパン職人の仕事を探してみたが条件に合う職が見つからず、日雇いの建設作業員として、住み込みで現場やドヤとよばれる簡易宿泊施設を渡り歩くようになった。決まった住所はなくなったが、手配師の所に行けば、仕事にあぶれることはなかった。以来、淡々と仕事をしてきた。

ところが、30歳を過ぎた90年代初めになると、次の仕事が見つからなくなった。世間では、バブル経済が崩壊し大規模な景気の後退が起きていた。長引く不況の始まりだった。

ようやく、スポーツ新聞で引っ越し作業の仕事を見つけた。前日の午後3時までに会社に電話して、翌日仕事があるかどうか聞くシステムだった。日当は650円で、仕事はあったりなかったり。月に5日ほどしか働けず、体力的にもきつかった。3ヶ月ほどで電話をするのをやめ、炊き出しに頼る生活に入った。

現在、夜は路上に四人で固まって寝袋で寝ている。ダンボールの囲いは作っていない。

「近くでダンボールにタバコの火を投げ込まれた人がいて……。寝ているときに燃えると危ないからね。いよいよ寒くなったら地下道の中に入るから」

40代後半とおぼしき女性のお客さんは、「風邪ひかないでね」と声をかけていく。お馴染みのお客さんの多くは、高層ビルで働く人たち。中年の女性が多いという。

「家には10年くらい帰ってないかな。帰ればすぐに帰れるところにあるんだけど、なかなかね」と永瀬さんは、ぽつりと言う。小さい頃よく遊んでやった兄の子供は高校生になっているはず。「のこのこ帰ったらみっともないから」と気にしている。それでも、高齢の両親にばったり会ったら、「元気にやってます」とは言えると言う。永瀬さんは我も我もと前に出ることはなかったが正直にやっているともいっていいはずだ。

昨年12月の誕生日は、身を寄せ合う仲間たちと過ごした。

「今年は仕事を探して、面接を受けたいね」。永瀬さんは、やはりぽつりとそう言った。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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