販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

オーストリア『マリー』販売者

“オーストリアのお母さん”とともに過ごした4年半 その学びを、誰も僕から奪うことはできない

オーストリア『マリー』販売者

ケネス ソマンディナ・イフェシナチ・オコエが、生活の再建を求めてナイジェリアからオーストリアへ逃げてきたのは、2015年のことだった。オーストリアで彼はケネスと呼ばれるようになり、一人の女性と出会った。
それが、現在89歳になるエルスベスだ。彼女は当時を振り返り、こう語る。「あれは16年3月のこと、ケネスはコプラッハ(※1)のスーパーの前で『マリー』誌を販売していたんです。初めは、英語で少し言葉を交わしました」 3日後にまたそのスーパーに行くと、擦り切れたズボンと靴を履いたケネスを再び見つけた。「ケネスのことをだいぶ前から知っているような気になったんです。ある日『あなたは、私のお母さんのようです』なんて言われるから、こう返しました。『私はもう86歳なのよ。だからお母さんじゃなくて、おばあちゃんじゃない』って」
ケネスも、あの日のことをよく覚えていると言う。「初めてエルスベスと会った時、彼女は私の目をじっと覗き込みました。そして、名前と出身地を尋ねました。エルスベスは、僕に話しかけてきた初めてのお客さんでしたね」
「ドイツ語はほとんど彼女から学びましたし、家に招かれた時はカスクノーフル(伝統的なチーズパスタ)などの地元料理を振る舞ってくれました。今ではすっかり、オーストリア料理の虜です」
16年の8月1日は、二人にとって忘れられない日となった。家族で祝うエルスベスの誕生日パーティにケネスも呼ばれたのだ。初めはいぶかしげにケネスを眺めていたエルスベスの子や孫たちも、会話を交わすうちに打ち解け、その日以来数々の誕生日やクリスマスをともに祝ってきた。
ケネスは17年8月以来、オーストリアに亡命する道を探ってきた。「一度目は却下されたので、弁護士を雇って19年8月に2回目の公判に臨みました」とエルスベス。英語の先生である彼女の娘も同席したが、やはり亡命許可は降りなかった。ケネスはボコ・ハラム(※2)の迫害を逃れて海を渡ったのだが、判決の趣旨は「ナイジェリアは国としては平和な国なので、国内の治安のよい別の地域に移り住めばよい」というものだった。再度上告することもできたが、それには3500ユーロほど必要で、うまくいく可能性は限りなくゼロに等しかった
「ここで過ごした4年半、多くのことを学びました。その学びを誰も僕から奪うことはできません。僕ももう31歳。家族も持ちたい。オーストリアを去るのは残念ですが、アフリカに帰る時が来たのだと思います」
エルスベスも、こう語った。「ケネスとのお別れは寂しい。退屈な人生になってしまいます。でもこれからもメッセージアプリでやり取りすることを約束しているんです」

文:Frank Andres, marie/INSP/八鍬加容子
メインPhoto: Frank Andres (脚注)
※1 オーストリア最西部、スイスとの国境近くにある町。リヒテンシュタインにも近い。
※2 ナイジェリアの過激派組織。数々の襲撃、テロ行為などで知られる。
『マリー』誌が販売されているフォアアールベルク州。コプラッハは郊外の町
Photo:Nataliia Sokolovska / Shutterstock.com
(雑誌情報) 『マリー(marie)』 1冊の値段/2.8ユーロ(そのうち1.4ユーロが販売者の収入に)
発行回数/月刊
販売場所/フォアアールベルク州
〈お詫びと訂正〉381号(4月15日発売)で、3段目の4行目に「副作用」とあるのは「合併症」の誤りでした。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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