販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

出川末広さん

家計簿をつけることで、少しだけ先が見えるようになった

出川末広さん

渋谷南口のロータリーが、出川末弘さん(51歳)の販売場所だ。この場所に立ち続けて一年が経つ。

「最初、新宿の路上で売っていたんですが、人通りが少なくて、あまりいい場所ではなかった。そうしたら、販売者の先輩の豊村さんがこの場所を譲ってくれたんです。豊村さんが頑張って開拓して、売れるようになった場所ですからね。大切にしないといけませんね」

場所柄、学生から、サラリーマン、マダム風の女性まで、客層は実に幅広い。

「やっぱりお客さんと話をするのが、一番楽しいですね。新宿で売っていたことを覚えてくれていた人もいて、話しかけてくれた時は驚きました。今だと一日平均25冊は売れます」

この数字、決して適当に言っているのではない。きちんとした彼の統計に基づいた数字なのだ!!出川さんは一日の売上げをメモに記している。その日の収支をつけ、月の予算を立てることで、一日に使える金額を割り出し、節約に精を出す。それはもう徹底している。

雑誌を仕入れるビッグイシュー東京事務所のある高田馬場から、販売場所の渋谷までは、必ず徒歩で移動。食材は100円ショップやスーパーのタイムセールを利用する。お金の出入は家計簿に細かく記入。巷のやりくり上手にも、引けを取らないほどだ。

「家計簿をつけることで、少しだけ先が見えるようになりました。路上での販売ですから、雨が降ったら仕事にならない。そういう時のためにも、蓄えは少しでもあったほうがいい」

そんな数字に強く、堅実派に見える出川さん、なぜ路上生活をするようになってしまったのか?

出川さんは、現在、51歳。秋田県の出身だ。家は農家。中学を卒業後、16歳で神奈川県の藤沢市へ出てきた。

「働くなら東京とずっと思っていました。東京のど真ん中というわけにはいかなかったけれど、大好きな海がすぐそばにある藤沢で働けて嬉しかった」と当時を振り返る。職場は、下着やワイシャツなどを生産する工場。大半の工場が海外移転している今と違い、当時はそこで作った衣類や下着がアメリカに輸出されていたそうだ。

「私の仕事は、衣塗といって、薬品を溶かした窯に布を入れて煮、ピンクやら白やらの色をつけることでした」

ところが就職して半年後、その工場は全焼し、閉鎖されてしまう。

「仕方なく田舎に帰って、農家の手伝いをしていたんですが、やっぱり東京に出たくてね、藤沢時代の仲間を頼ってまた上京して、左官屋になる修行を始めたんですよ」

それから約6年、左官職人の見習いを続けたが、親方の死によって、それもあっけなく終わりを告げた。それから新たに左官職人に弟子入りすることはせず、道路の舗装やPC盤の取り付けなど、月払い、日払いの仕事を請け負うようになる。

「PC盤専門の会社にいた時は、月35万近くは稼いでいたんじゃないかな。建設ラッシュだったからね、腕さえあればどこでも雇ってくれる、そんな時代だった。社員寮に住んでいたから、寮費5万を引いた残りすべては自由に使えたんですよ」

堅実派の出川さんのことだから、相当貯金もできたのでは……と思いきや、残りのお金はすべてパチンコに消えていった。

「負けが込んでくると次、次って、どうにも止まらなくなる。寮に帰る時間が惜しいから、パチンコ屋のそばのカプセルホテルに泊っていたくらい、ハマッてしまいました」

そのうち勤めていた会社の社長にも給料を前借りするようになり、結局居づらくなって退社。その後、住居を定めず、カプセルに泊まりながら、日雇いで稼ぎ、それをすべてパチンコに費やす。資金がなくなるとまた稼ぐという生活を繰り返した。

「そうしているうちに身体を壊してしまって、にっちもさっちも行かなくなってね。結局路上で暮らすことになってしまったんですよ」

出川さんの人生を大きく狂わせてしまったパチンコ。

「今はもうとてもじゃないけど、パチンコをしたいなんて気分はないですよ。もう7、8年はやってませんからね。なんであんなにハマッていたのか、今となってはよくわからないんです」

今唯一の気晴らしは、たまに食べる大好物のマグロの刺身。タイムセールを狙って手に入れる。長い夢から覚めた出川さんは、現実に足をつけながら、一歩一歩、未来に向かって歩きはじめている。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

この記事が掲載されている BIG ISSUE

31 号(2005/07/01発売) SOLD OUT

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