販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

根岸博さん

おにぎり屋さんをしながら、休みには油絵を描けるようになりたい

根岸博さん

「長いなあ」。根岸博さん(54歳)は、自身の路上生活を振り返ってそう言った。30代の終わりで無業になって、ここ10年はテントに住み、炊き出しに頼る毎日を続けてきた。
昨年9月、知り合いの販売員の勧めでビッグイシューの販売員として登録をした。売れば食事をとれるようになると思ったからだ。
当時の写真を見ると、頬はこけ、目が落ちくぼんで、うつろな表情をしている。長い路上生活のため身体が衰弱していて、スタッフも「大丈夫だろうか」と思ったほどだった。

渋谷駅東口・渋谷東映プラザの向かいに立つ根岸さんは、今や「交差点で人が集まるところだから、あまり大声は出さないようにしているんですよ。耳元でうるさくしてご迷惑かけちゃもったいないからね」と気兼ねするほど、体力が戻っている。「自分で日に3度、食べられるようになったし、生活のめどがつきました。午前中はアルバイトも始めて、生活を建て直しているところです。前は生活に節目がなくて、目標なんてものも持てなかったですけど」

昨年12月から、東京都福祉局の地域生活移行支援事業であっせんされたアパートで暮らしている。現在は、毎朝5時に起きて室内清掃の仕事へ行き、みっちり5時間働いてから、急いで部屋に戻って、自転車で40分かけて渋谷へ向かう。夕方4時前から売り始めるのだから、何とか夜8時までは売りたいが、翌朝も早いのがつらいところ。「ちゃんと自炊しなきゃ申し訳ないし、夜も長く売りたいんです。でも、あまり我を張ってしまうと磨り減っちゃうから」

日雇い仕事を始める前は、20代半ばから5年ほど、建築会社で土木工事の仕事をしていた。その前は、20歳過ぎから始めた古物商で、「美術品を売って月に100万円儲けたこともある」と言う。25歳で、一目惚れした女性を口説き落としてスピード結婚するものの、古物商の仕事がうまくいかなくなったのをきっかけに、スピード離婚する。「結婚してすぐはちゃんと生活しなければいけないなと思ってたんだ。離婚して何もかもが嫌になって、生活にはりがなくなって、ふらふらして、行き当たりばったりの生活をして、住所がなくなった」
その後は、気の合う女性に出会うことがなかった。

生まれは群馬県の町なかだが、3歳のときから「知らないおじさん」のところで暮らしていた。その後、東京に移り住み、中学を卒業してからは、新宿あたりでふらふらしていた。17歳で実の母親と暮らすようになったが、母には再婚相手である父親と、新しい兄弟たちがいた。居づらくなって、またふらふら。

仕事のない時期が長かったのは?「働く意欲もなかったし、仕事をすることが向かなかったんでしょうね。歳をとっていなかったのでわからなかった。54歳になって、やっと年齢が落ち着いたんでしょう。今は、自分で働いて、喜びを持って生活しています」。根岸さんは静かにそう言う。「お客さんから、がんばってくださいね、と声援をもらうことがあるんです。嬉しいものですね。できればそのうち貯金もしたい。貯金できたらおにぎり屋をやりたいんです。1つの商売で生活してみたい。なるべく早く、ビッグイシューは外から応援できるようになりたいですね」
田舎には、高齢の両親が健在だという。「この前、本を売っているときに母親が通ったんだ。声をかけて振り向いたんだけど、こういう商売って、難しいですね、遠ざかりました。気づかなかっただけかもしれないけど。元気でいてくれればそれでいいです」

ここ1年、油絵を描き始めた。昔は絵を売っていたこともあるが、今度は自分の楽しみをつくろうと思った。「おにぎり屋さんをしながら、休みの日に油絵を描けるように……なればいいですねえ。今は、河童の絵を描いてるんです。夏のイメージで。夏に向かってバリバリと頑張っていきたいからね」

(コラム)
リオデジャネイロで若い男が乗客を人質にバスに5時間立てこもる事件が起きた。犯人のサンドロが、ストリート・チルドレンが警官に虐殺された『カンデラリア教会虐殺事件』の生き残りであることに興味を持ったジョセ・パジーリャ監督は、彼の生い立ちを調べ、ドキュメンタリー映画『バス174』を制作した。
リオの街の空中撮影と、事件のテレビ報道映像、サンドロにかかわった人々のインタビューによって構成された映画は、貧困が生み出すストリート・チルドレンや警官の腐敗、犯罪者を再生産する少年鑑別所や刑務所の問題など、ブラジル社会の闇の深さを垣間見せる一方で、"内気で穏やか"な少年が、路上で生き"犯罪者"となってゆく様子を描いてみせる。
サンドロは金品を要求しなかった。彼の望みは「自分の存在を認められること」。人質になった女性は言う。「事件を長引かせること、それがメッセージを伝える彼なりのやり方だった。それは生き延びることに負けずおとらず大きな意味を持っていた」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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