販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

瀧富夫さん

尊尊我無 まだ一度も咲いたことがないから、これから咲くこともあるわな

瀧富夫さん

「いわゆる"先生"といわれる仕事以外はいろいろやったよ」と頭を掻きながら照れ笑いするのは、瀧富夫さん。現在は、大阪市の特別清掃事業を手伝いながら、ビッグイシューの販売に携わっている。毎朝5時には起きて、7時半には売場である、本町の北御堂(本願寺津村別院)前に立つ。ビジネス街である場所柄、買っていくお客さんはサラリーマンが多い。

鹿児島県、与論島生まれの瀧さん。島には当時高校がなく、中学卒業後は名古屋に集団就職した。「自転車の車輪用に針金を丸くする作業を延々やってたな」。だが人付き合いに疲れ、その後は職を転々とする。19歳の頃には、奄美大島で漁船にも乗った。「3人乗りの船で、沖縄の人たちと仲良くやってたよ。楽しかったなぁ。今でもその頃のことはたまに思い出すねぇ」と瀧さん。"ちびき"というしっぽの長い南方系の魚などを、一本釣りしていた。

大阪、釜ヶ崎にたどり着いたのは、30年前だ。日雇いで稼いでは、パチンコにつぎ込んでしまう日々。「10年前に一度田舎に帰ったことがあるんですわ。そしたら、『いつまでも若くないんだから』『お金は計算して使いなさい』って言われてね。そのとおりだよね、ほんと自分はちゃらんぽらんで。当時は自分のことを思って言ってくれてることが、わからんかったな。今は、反省ばっかりしてるわ」とうつむき加減に語る。

8年前には、お酒の飲みすぎから肝炎に。日雇いの仕事も次第に減っていき、1年半ほど前からホームレスになった。「やっぱり最初は辛かったよね」と語る瀧さんだが、ホームレスの経験から得たこともあると言う。「世間一般が考えるとの違って、缶拾いなんか一所懸命にやってる人が多くてね。人の見方は勉強になった」

瀧さんは小学6年生のときに、お父さんを亡くしている。「父も楽しみ程度に漁船に乗っていたんやけどね。外海に出るとき、座礁事故に遭って」。過労のせいか、お母さんも後を追うように10ヵ月後に亡くなった。「だからうちでは、兄貴と姉貴が両親代わりだった」と語る瀧さん。当時18歳だったお姉さんが織る大島紬と16歳だったお兄さんの畑仕事から得る収入で、兄妹5人と寝たきりの叔母さん2人が暮らしていた。
早くに亡くした母への思いを手紙に託した瀧さん。「拝啓 母上様。別れて十余年 今も思いに変わりなし 教えを求めて流れ着いたる釜ヶ崎」という一筆は、福井県丸岡町が主催した一筆啓上賞に入選。『日本一短い母への手紙-一筆啓上』という本にも収録された。

10年前の帰郷以来、「好き勝手生きてきたから田舎とは疎遠になっていた」と言う瀧さんの元にお兄さんから手紙が届いたのは、ホームレス生活を始めた1年半ほど前のこと。与論島から届いたその手紙を、知り合いの人が西成公園まで届けてくれたのだ。見せていただいたその手紙には、時間をかけて書いたであろう丁寧な字が整然と並ぶ。家族の近況とともに、「もう年なんだし、体に気をつけて無理せず、いつでも帰って来てください」の文字。お兄さんのお孫さんの写真も同封されたその手紙は、いつも瀧さんが持ち歩くカバンに大切そうにしまわれている。「いつでも帰ってきてください」という一言は、ホームレス生活に落ち込んでいる時には勇気を与えてくれた。だが、「普通の状態やったら帰れるけど、今の状態ではなぁ」と揺れる気持ちもある。去年の暮れにお兄さんに電話し、元気でやっていることだけを告げたという。

いままでの仕事では、直接「ありがとう」「頑張って」と言われたことはなかった、という瀧さん。ビッグイシューの仕事は収入は多くないが、そんな一言が今までにない快感で、特になかなか売れないときにかけてもらう言葉は格別だという。「故郷の言葉で『ありがとう』は"尊尊我無(とーとぅがなし)"って言うんですわ」。胸の前で手を合わせ、お辞儀しながら、瀧さんが言った。

そんな瀧さんに夢を聞くと、「夢は実行しないと空洞になる。何とでもいえるもんな。不言実行やな」とかっこよく答えた後、えへへと照れ笑い。少し真顔になって、「咲かずに終える花もある。だけど、まぁ、まだ一度も咲いたことないから、これから咲くこともあるわな」とまた照れくさそうに頭を掻いた。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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