販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

『ビッグイシュー南アフリカ版』販売者、アリス・ピナ・ンカタ

今はここにずっと座っているだけ でも、人生は美しい。 私の魂はすべてを受け入れる

『ビッグイシュー南アフリカ版』販売者、アリス・ピナ・ンカタ

そこはケープタウンでもよく知られた観光地、ビクトリア&アルフレッド・ウォーターフロントで、埠頭沿いにパステルカラーのレストランやお店が立ち並ぶショッピングモールだ。その背後には世界的にも有名なテーブルマウンテンがそびえており、まさに絵はがきにぴったりの美しい光景。アリス・ピナ・ンカタ(52歳)は、このモールの駐車場前にあるベンチに腰かけ、ビッグイシューの販売を行っている。
今朝11時から仕事を始めた彼女。他の販売者と比べると決して早いスタートではないが、モールを訪れる客がほとんどいなくなる21時過ぎまで働いている。仕事を始めて3時間でわずか5冊しか売れていないが、本人はみんなが仕事を終えた後は売れるはずと自信たっぷりだ。
アリスはケープタウン郊外にあるググレツという元黒人居住区で生まれ育ち、現在もそこに暮らしている。「いつから『ビッグイシュー』の販売を始めたのか? どんな経緯を経てこの仕事に就いたのか?」と尋ねると、過去のことを必死に思い出そうとする顔からはいつの間にか笑顔が消えていた。「私、記憶力がよくないの」。そう言って、長い沈黙の後、すまなさそうに詫びた。「事故に遭って脳損傷を受けたから」
それは1990年のことで、アパルトヘイトが終焉を迎えようとしていた時期だった。アリスはANC(アフリカ民族会議)とともにフルタイムで活動すべく、仕事を退職。白人政府に対し圧力をかけ、ネルソン・マンデラをはじめとする政治犯を解放するためのキャンペーンに携わっていた。
「私は車の後部座席で二人の女性の間に座っていたわ」。彼女はあの運命的な夜のことを回想する。「ちょうど議会から出てきたところで、同志のみんなにいいニュースを伝えようと興奮していたの」。政治犯の解放は間近だった。アリスはみんなが車内で踊っていた様子を再現してみせる。だが、交通事故が発生、彼女はグルーテスキュール病院で2ヵ月半の昏睡状態に陥った。
意識が戻ると、一緒に闘った同志が病院を訪れ、政治犯たちが解放されたと教えてくれたという。あれほど待ち望んでいた歴史的瞬間をアリスは見逃してしまった。さらには自分の自由までも失ってしまった。「歩くことも、話すこともできなかった。リハビリをがんばっていたけど、奮闘する様子を見た人たちは無理に話さなくていいと言ったわ」
事故当時お腹にいた娘は見事に生きのび、その後すぐに誕生した。「子どもは健康で本当に奇跡的だった」と彼女は言う。とはいえ、まずは自分の面倒を見られるようになるまで、何年もリハビリを行う必要があった。
今では歩いたり話したりすることもできるようになったが、昔のようにはいかない。それでも、「働かない」という選択肢は現在の彼女にはあり得ない。なぜなら家賃を払い、夫がいない中、3人の子どもと3人の孫を育てなければならないからだ。その中には、2週間前に亡くなった息子ルンギルの子どもも含まれる。「厳しい状況だけど、息子が亡くなる前に約束したの。赤ちゃん、ルニコの面倒は私が見るとね」
「今ここで働いていることが、本当に不思議よ」。静かに過去を顧みた後、彼女は海に目を向けた。「彼らが捕えられた島からこんなに近い」と、数マイル先にあるロベン島を指す。彼女が解放を訴えていた政治犯が長年捕えられていた所だ。「昔の私はとても活動的だったけど、今はここにずっと座っているだけよ」
「でも、人生はとても美しい。私は多くの貴重な体験をしてきた」。そう言うとビッグイシューの前号を手に取って、彼女の詩が掲載されたページを開いた。 その詩には息子が海外で技師として働くことをとても誇らしく思っていたこと、彼を死に至らしめた麻薬への怒り、そして毎晩11時にかかってきた息子からの電話がないことへの寂しさも綴られていた。詩のタイトルは、「今、私の魂はすべてを受け入れる」だった。

『ビッグイシュー南アフリカ版』
1冊の値段/20南アフリカランド(約190円)で、そのうち10ランドが販売者さんの収入に。
販売回数/月刊
発行部数/1万3千部
販売場所/ケープタウン

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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