販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

大川次男さん

「もう一度そば屋をやる!」帰ってきたカリスマベンダー

大川次男さん

ビッグイシューの立ち上げ当初から販売員(ベンダー)として活躍し、東京に進出したときは開拓者として奮闘してきた大川次男さん(64)が、一月に大阪に帰ってきた。新しい持ち場はミナミの戎橋。ナンパの名所として知られ、通称「ひっかけ橋」と呼ばれる賑やかな場所だ。「気づくと1年たってましたわ」と笑う大川さん。現地でスタッフも揃わないうちから、販売員の養成などをリードしてきた。一日で206冊という記録をもつ販売力、そして実際にやって見せる統率力から、いつの間にか「カリスマベンダー」と呼ばれる存在になった。数多くのメディアで紹介されている大川さんは、日本一有名なホームレスかもしれない。

大川さんは18歳からそば職人として働き始め、40代で自分の店を構えた。8人がけのカウンターのみの小さな店舗からスタートし、3年後には60名が入れる大きな店に成長させた。外部からスタッフも雇い入れたが、彼らと大川さんの奥さんとの折り合いが悪く、店の雰囲気が暗くなってしまったという。それが影響したのか、客足は減る一方。そこにバブル崩壊が重なり、大川さんは店を閉めざるをえなくなった。「4,000万円の借金が残ってしまい、その返済のために職人に戻って必死に働きました。マンハッタンにあるそば屋で働いていたこともあります。そこでの給料は、日本円で1ヶ月に80万円くらいやったかな。帰国してからも、そば職人として働き続けました」

しかし借金完済まであと300万円を残したところで突然のリストラ。50代になっていた大川さんは再就職もままならず、生活のために始めた肉体労働も長くは続けられなかった。やがて離婚し、ホームレスに。中之島でのテント生活が3年を越えた頃にビッグイシューの存在を知り、すぐに販売を始めた。

大川さんには大きな目標がある。もう一度そば屋をやることだ。販売を始めたときは、ビッグイシューはその資金を稼ぐための手段に過ぎないと割り切っていた。売り上げは好調で、「これなら1年くらいで資金も貯まるやろな」と計算していたそうだ。

だが、それから1年以上たった今も大川さんはビッグイシューを売り続けている。なぜだろうか。「最初はお金が貯まったらすぐ辞めようと思ってましたよ。でもやればやるほどね、あっ、これは自分だけが『いち抜けた』じゃあかんなと思えてきましてね」。なぜなら、「路上に立ってみて、これはきつい仕事やな、一般社会に戻ってもこれよりきつい仕事はないなと骨身にしみてわかったから」だと言う。そんな自分の経験を通じて、「街に立って頑張っている販売者たちを、もっと底上げしてやらんといかん。自分の夢はそれからでも実現できる」と大川さんは考えた。

その決意を胸に東京へ向かい、販売体制の基礎をつくった。自分の販売時間を切りつめ、当初は仲間のためにビッグイシューを1日2回、300冊ずつ高田馬場にある事務所から新宿へ運んだ。本を載せたキャリーの重さは2~30kgになる。当時63歳の大川さんはそれを抱えて階段を何度も昇り降りした。いうまでもなくその時間内の大川さんの収入はゼロだ。

他の販売者の様子も気にかける。「販売者は『暑いからダメ、寒いから売れない』とよく言うんです。だから私はそこに行って立ってみせるんです。口で言うよりも、私の姿を見てわかってくれればいい。そしたら私に続く人も出てくるでしょう」
東京の販売もずいぶん安定してきたが、まだまだこれからだと大川さんは言う。「でも池田さんと香取君といういいスタッフが入ってくれたからね。私が長くいすぎたら販売者も甘えてくるし、よくないでしょう。それで帰ってきた面もあるんですよね」

取材中、大川さんは「ビッグイシュー」という言葉を愛おしそうに、何度も口にした。「ビッグイシューの線路は引けたけど、これに甘えたらいかんと思います。私はこの会社に潰れてほしくないんですよ。自分の夢を実現させるためもあるけど、佐野代表と出会えて、販売者の子らも見てきて、この会社は潰れたらあかんと、本当に思うんです」
近頃、お客さんとの距離がだんだん近づいていると実感するそうだ。「向こうから励ましてくれる、私らもお客さんを励ます。そういうことがものすごく嬉しいんですよね」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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