販売者に会いにゆく (旧・今月の人)
川上信一さん
20年来の友人にだまされ無一文に。 だけど、人とふれあう販売を通して人を温かい目で見られるようになった
渋谷・宮益坂上交差点付近を、販売者の川上信一さん目当てで訪れても会えない日もあるかもしれない。川上さんが立っているのは、月~土のうち4、5日程度の朝9時~夕方4時頃まで。ハローワークに行く日は3時頃に切り上げることもある。探しているのは、長く勤められる調理職。川上さんは、フレンチとイタリアンの2分野であわせて20年ほどのキャリアをもつ料理人なのだ。
30年近く前に理工系の短大を卒業した川上さんが、最初に就職したのは業務用厨房機器の会社。営業としてさまざまな飲食店の間を飛びまわっていた。職人さんたちにふれあう日々を送るなか、もともと料理好きだった川上さんのなかで「自分も料理をしたい」という気持ちが膨れあがり、3年で営業職を辞することに。青山のフレンチレストランからの「やる気があるならうちでやってみるか?」との誘いに乗り、料理人の道を歩み始める。 「最初は皿洗いのアルバイトでしたね。もともと社員として、という話だったのですが、学校に通いたいからとアルバイトで入ることにしました」
昼間はお店勤めをしながら、夜は調理師専門学校に通った川上さん。1年半で無事に調理師免許を取得し、晴れて正社員として働き始めた。
「まずはホールから始めて、厨房に入ってもチーフがいろいろ教えてくれました。いい人ばかりのお店でしたね。そこには7年ぐらいいて、イタリアンをやりたいからと辞めたんです」
その後は神楽坂と渋谷のイタリアンで、それぞれ5年ほど料理人として活躍。順調にキャリアを伸ばすに従い、「いずれは自分のお店を」と夢も膨らんだ。
「それが、こうなるきっかけでしたね」。遠くを見るような、わずかに悔しさがにじむようなまなざしで、川上さんは続ける。「調理師学校時代からの友達が、あてがあるようなことを言ってきたんです。共同出資で、一緒にやろうって」
つき合いが、20年近くにもなる友人。お互いに料理人として切磋琢磨しながら、月に2~3回は会っていた盟友だった。
「青山の店舗に保証金が必要だからって、1千万円を渡したんです」
20年かけて貯めていた開業資金だった。「今から思えば、自分でももっと勉強をしておけばよかったんですよね。全部任せちゃってたし、不動産の書類なんかも見せてもらっていたので、すっかり安心していました。10日ぐらい経ってから『そういえばどうしたかな?』と電話をかけてみたら、通じなくなっていました。慌ててマンションまで行っても、もぬけの殻で……」
予想もしなかった裏切りに、茫然自失となった川上さん。仕事に対する意欲もなくなり、勤めていたお店も辞めてしまう。
「もう料理の世界から遠ざかりたい一心でした。日雇いの仕事を探して、解体現場のガラ出しとかをやっていました。きつかったですよ。体力的にも、精神的にも。これまで仕事をしていた人たちとは、言葉づかいも何もかも違う人たちでしたから。手配師も、最初は調子いいことを言うんですよ。『ずっと仕事あるよ』とか。でも、行ってみると『明日からない』とか言われちゃって」
日雇いに出たり出なかったりして1年ほどが経ち、川上さんは家賃が払えなくなってしまう。友人宅などを転々としながら半年ほど過ごしたが、だんだん行ける先も減っていく。 ビッグイシューに出会ったのは1年ほど前。「毎日仕事ができるっていいなと思いました。買っていく人も、みんなやさしい人ばかりで、毎朝話しかけてくれる人もいますし、クッキーを焼いてきてくれた人もいました。ビッグイシューを売るようになって、他人を温かい目で見られるようになった気がします」
思いもかけない再会もあった。「失礼ですが、ひょっとして川上さんじゃないですか?」と、声をかけてきた人がいたのだ。厨房機器メーカーの営業時代につき合いのあった人が、たまたま通りがかったのだった。ことの顛末を包み隠さず話すと「じゃあ、うちのラーメン屋を手伝ってくれない?」
今、川上さんは、土曜日の販売を終えると、ラーメン屋の手伝いに行っている。土曜日と日曜日の夜だけ、料理人に戻っているのだ。さらに、週に1日程度、登録してある労働・福祉センターから仕事が斡旋されると、販売を休んで出かけていく。
宮益坂上交差点付近で川上さんを探してみて、見かけなかったらそれは川上さんが自身の道を歩むために時間を割いていると思っていいはずだ。
※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。
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