販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

平井久雄さん

人気の高い表紙を見せたり、工夫をしながら人とふれあってます。 来年にはアパートを借りたい

平井久雄さん

「ビッグイシュー、300円!」と、お茶の水橋の上で雑誌を高く掲げながら道行く人々に声を投げかける平井久雄さん(39歳)。
「値段言わな、立ち止まってもらえないですし。止まってから何の本か説明して」と、ほがらかな大阪弁で、自分流の売り方を説明してくれた。御茶ノ水に立つようになって2週間だが、多い日は一日で70冊を売り上げた。「平均でも一日30冊以上は売れますね。いろいろなお客さんが通るし。学生や病院に行く人、サラリーマン。散歩しているような人も。ここは平均で出ます。前に立っていた新宿西口の京王ホテル前は半分もいかんかったなあ、売れる日と売れない日の波もあったし」
難をいうと、川の上にかかる橋だけに風が強いこと。あまりの風の強さに帽子や荷物が飛ばされそうになり、売り物の雑誌を守っている間に帽子が遠くまで飛んでいってしまったこともある。
「しょうがないから、また帽子を買いました」
あまり残念でもなさそうな、さわやかな関西弁が印象的な平井さん。もともとは埼玉県生まれだったが、10歳の頃に両親の離婚で母の実家がある大阪へと移り住んだ。
「勉強するのキライやったから、15歳の時割烹料理のお店に入って。田舎の料理屋やから、毎日夜11時過ぎまで働いて、土日とか予約が多いときは徹夜で準備。12月とか8月、2月は休みもなかったです」
4年ほどハードな板前修業の日々を続けた20歳の頃、「遊びたいから」と平井さんは割烹を辞める。「堺のプレス工場で働き始めて、すぐにケガして、指無くなりました」。平井さんの左手は潰されていて、かろうじて残された指は1本だけ。その後2年ほどの間に5~6回手術をしたが、そのたびに入院。工場では引き続き働かせてもらうが「30歳前ぐらいの時に会社の人とうまくいかんくなって、辞めんでもいいのに辞めてしまいました」
ここで、少し曇った表情を見せたのは、安定しなくなったその後の生活を振り返ってのことか。キャバクラの呼び込みをしたり、飯場で事務員をしたり、ガードマンをしたり、清掃の仕事をしたり。神戸・大阪・京都・名古屋と、いろいろなところを回った。
「仕事があるからって行ったのに、お金をもらえるかもらえんか、わからんくて」。次の仕事を求めてすぐに場所を移った記憶も少なくない。名古屋から徒歩で大阪に戻ろうとしたこともあった。地元に近い小さな清掃工場で働きはじめたのは、30代も半ばにさしかかった頃。「ダブルで儲けよう」と社長が始めた焼き芋屋の手伝いもした。「1本200円で売って、あんまり儲けにはならなかった」けど、人と接する仕事は好きだと思った。
不況のあおりか清掃会社がダメになり、平井さんはまた仕事を求めて転々とする日々をすごすようになる。生活保護を受けた時期もあった。そうして平井さんが思い出したのは、街角で見かけたビッグイシュー販売者の姿だった。
「なんとなくホームレスが売る雑誌だって知ってたけど、くわしい仕組みとかは知らんかったし。大昔は、遠くから見かけても『立っているな』と思っているだけやったね」。昨年の10月頃、大阪で販売を始めてみた。「でも大阪だと、知り合いに会うから。たかりとかもいるし、販売の近くに立たれたら売れない」
東京でもビッグイシューがあると知っていたので、4月に上京。地理も治安もわからないから、最初の数日はネットカフェで寝泊まりし、すぐに炊き出しの場で事務所の人に声をかけて、販売者に登録した。寝る場所も教えてもらった。販売者になってからは、炊き出しには行っていない。
「平日は朝7時とか7時半から売り始め、夕方まで売って、翌日分の仕入れに間に合うぎりぎり5時半には事務所に向かうかな。事務所が開く朝7時を待っていると、売れる時間に販売できなくてもったいないから。土曜日は人がちょっと少ないので、朝8時~夕方4時ぐらいやな。ムーミンとかトーマスとかの表紙を出しておくと、バックナンバーが売れるね」
買ってくれたお客さんがあいさつをしてくれたり、声をかけてくれたりすることに温かみを感じるという平井さん。新規のお客さんとのふれあいも楽しみながら、「来年の春くらいにはアパートを借りたい」との希望を抱いている。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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