販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

山内真一さん

一日も早く自立するという、お客さんとの約束を果たすため 痛む腰をかかえながらもがんばるよ

山内真一さん

「駅の向こう側に住んでいる方が、わざわざこちら側まで買いに来てくださる。本当にありがたいことですよ。お客さんに支えていただいていることをひしひしと感じています」。そう話してくれるのは、阪急・豊中駅東口で販売をしている山内真一さん(60歳)。販売者となって半年が過ぎ、増えてきた常連さんと世間話をするのがとても楽しいと頬を緩める。 岐阜生まれの山内さんは、小学校へあがる前の幼い頃に大阪に越してきた。物心がついた時に一緒に暮らしていたのは、父と3人目の母、そして母が異なる弟2人。
「私を産んでくれた母は父と早々に離婚をしてしまってね。父は再婚したけど長く続かなくて再々婚。その3人目の母親が、今でいう虐待のような扱いを私にだけするわけですよ。小学校の頃はほうきの柄で強く叩かれて、ミミズ腫れになることもしょっちゅう。当時は継母だと知らされていなかったから、何で家族の中で私だけがつまはじきにされるのかと悩んだものです」
悩みながらも15歳まで家族と暮らしたが、高校を1ヵ月で中退した後、一人で東京の親戚宅へ。塗装工をしている叔父の仕事を手伝いながら、3年間を過ごした。その後、「調理師になりたい」という夢に挑戦したくて大阪の実家に戻るも、両親に大反対されて再び家を出てしまう。
「でも、保証人がいないから調理師学校には通えなくてね。それなら飲食店に勤めて実践で調理を学ぼうと、18歳から25歳まで喫茶店やスナックで働きました。ところが、何かと誘惑の多い世界で、悪い遊びにも誘われてしまうし、お金遣いも荒くなる。これじゃあいけないと、もう一度東京の叔父のところで働かせてもらうことにしたんです」
それから6年間、再び塗装の仕事に携わったが、「愛着のある大阪で暮らしたいという思いがずっと消えなくて」と帰阪。東京で大型車やフォークリフトの免許を取得していたこともあり、運送関係の仕事に就いた。真面目に働き、ついには貯金でトラックを購入。ある運送会社にそのトラックを持ち込み、個人事業主として仕事を請け負うようになる。
「時代はバブルだったし、休みも取らず熱心に働いたから、仕事も着実に軌道に乗った。事業をさらに拡大しようと、トラックを2台買い足して若い人を雇おうとしたんだけど、そんな時に阪神大震災に見舞われてね。状況が一変して、売り上げも激減。借金が膨れ上がって、どうにもこうにもいかなくなって、ついには夜逃げのようなかたちになってしまって……」
住み込みで働けるところを探し、静岡にある倉庫会社でフォークリフトを使う仕事に就く。当初は2ヵ月契約の派遣社員だったが仕事ぶりが評価されて正社員になった。しかし、椎間板ヘルニアを患い、仕事が続けられなくなりまた大阪へ戻る。福祉施設に入所して腰の手術を受けた後、しばらく療養して退所。仕事を探すも見つからず、所持金は2ヵ月ほどで底をつき、家族とも長らく連絡を取っていない山内さんが路上で眠るようになったのは昨年9月。大阪・中之島公園での炊き出しに並んでいる時にビッグイシューのチラシを手にし、「とにかく仕事をしなくては」とすぐに連絡を入れ、12月初旬から販売者となった。
「表面的に親切な人はいても、心から親切な人というのはそうそういないと思っていた。でも、この仕事を通して多くのお客さんと出会ううちに、心から人を思える人がこんなに大勢いるのかと価値観が変わりました」 販売者になる前は、「何度も身を投げようと考えた」と言う山内さん。でも今はそんなことをまったく考えなくなったという。
「だって、早く自立するというお客さんとの約束を果たしたいからね。とにかく一日も早く路上を脱出して、アパートを借りて仕事に就きたい。フォークリフトを使う仕事なら即戦力で働ける自信はあるし、真面目に一所懸命働くつもり」
鉄板とボルトの入った腰は、立ち続けていると時々痛む。
「でも、気力だけは人一倍あるから大丈夫。1年で自立するという自分で決めた目標に向けて、ただ毎日をがんばるのみです」

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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