販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

佐藤英樹さん

あくびと同じで、笑顔も伝染するんです 得意のダンス、いつでもお見せしますよ

佐藤英樹さん

佐藤英樹さん(55歳)は東京・新宿にほど近いJR代々木駅北口で、日曜以外の朝10時から夕方5時半頃までビッグイシューを売っている。
「オススメ代々木のビッグイシュー、売ってるよ~~代々木っ」
金魚売りか焼き芋売りのような抑揚をつけて笑いを誘う。「笑顔はあくびと同じで周りの人たちに伝染するんです。どうせ売るなら明るく売りたい」。しかし、そのひょうきんさとは裏腹に、彼の半生は波乱に満ちている。
生まれは鎌倉。3人兄弟の真ん中だった。父は横須賀で「米兵相手の写真屋」を経営していた。「どんな写真を撮っていたのか、夜だけの営業で昼間は寝ていたから、あまり話した記憶がありません」。その父は8年ほど前、うつ病で自殺した。
母は料理が得意だった。「俺が2歳半くらいの時、マドレーヌのようなお菓子を焼いてくれた。その匂いと味を今でも覚えています」
毎日2時間かけて夕飯を作る母をいつも見ていた佐藤さんは、小学5年で食品科学の本を読むようになり、中学2年から、父親の知り合いが経営している中華料理店の見習いとして働くようになった。
「おかげで麺もうまく揚げられるし、おいしいチャーハンも作れるようにはなりましたが、箸でたたかれたり、熱湯をかけられたこともあります」
19歳の時、中華料理店を辞めて自衛隊に入った佐藤さんは、やがて戦車部隊でジープや戦車を運転するようになった。テレビの2時間番組で密着取材を受けたこともあるそうだ。しかし、階級が進むにつれて仕事量が増え、睡眠時間が少なくなっていった。また、「人の言うことを聞くより、自分で一から試行錯誤してがんばることが好き」なこともあり、組織にはなじまなかった。
結局9年半で自衛隊を後にした佐藤さんは、10年ほど運送業を続け、そのあとは風俗店のボーイや居酒屋の店員など、「人と接する仕事」を転々とした。そして昨年5月、派遣社員として働いていた倉庫でついに倒れてしまった。連日、具体性に欠ける小言を浴びせられ、ストレスが極限に達したのと、持病の高血圧が重なってのことだった。
1週間の休養後、派遣会社に連絡を取ると「他の人が働いているからもういい」と断られ、仕事を失った。その派遣会社に間借りしながら、ハローワークに向かう途中、佐藤さんは「仕事と部屋あります」という看板を見つけた。
事務所を訪ね、中華料理が得意なことを伝えると、食堂の開店準備を一人で任され、調理師として働かされた。ところが、申請したはずの生活保護費ばかりか、十分な給料も支払われない。いわゆる「貧困ビジネス」に引っかかったのだ。
そこで毎晩のように、佐藤さんは何かと因縁をつけられては殴る蹴るの暴行を受けた。「でも、自衛隊で学んだ護身術の心得があったから、命だけは助かりました。暴行の瞬間、体を丸めて、相手の膝を動かして力を入らなくさせるんです」
その後、内部の人の助けで施設を出た佐藤さんは、木材加工の見習いとして働き始めた。
しかし、持病の高血圧に加え、暴行で肋骨が2本折れていたことから、重い木材を運ぶことはできなかった(現在、警察に被害を訴えたことで、暴力事件は解決。先方からは未払い賃金、治療費が支払われることになった)。
昨年10月、ようやくNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」にたどり着いた佐藤さんは、ビッグイシューを紹介された。今は荒川のドヤ(簡易宿泊所)で寝泊まりしながら、販売を続けている。「住所がドヤでもすぐに稼げる、人と接する仕事」が気に入っている。
お客さんは「近くの専門学校に通う若い子たちや、外国人が多い」とか。「片言の英語しかしゃべれない」と言いながらも、道に迷っている外国人を見つけると、自分から声をかけ、懸命に道を教えようとする。
「10年ほど前、ピースボートの船旅に参加して、世界一周したことがあります。その時、肌の色や言葉は違っても人類みな兄弟だと感じました」
寒い時は、今年に入って本格的に始めたというヒップホップダンスで身体を温める。「昔、TRFのダンスをまねしてみたら、簡単にリズムに乗れることがわかったんです」。そう言うと、佐藤さんは携帯型CDプレイヤーから流れるhitomiの『LOVE2000』に合わせて、得意のダンスを披露してくれた。
伸びやかに手足を動かし、実に気持ちよさそうだが、ヘッドフォンをしているため、はた目からは何の音楽に乗っているのか、わからない。
「声をかけてくれたら、いつでもお見せしますよ」 人に伝染する、とびきりの笑顔でそう言った。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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