販売者に会いにゆく (旧・今月の人)

ウクライナ『家路』販売者、ニコライ・ロマノフ

『家路』に助けを求めなかったら、たぶん酔っぱらって、どこかの地下で死んでいたでしょう

ウクライナ『家路』販売者、ニコライ・ロマノフ

私は若い時、オデッサ技術専門学校を卒業し、エンジニアの免許を取得しました。そして、オデッサにある工場で働いていたのですが、91年にソビエト連邦が崩壊し、工場は閉鎖され、職を失いました。
2、3年ほど、半端仕事をして過ごすうちに、手作り酒を売る人たちと親しくなったんです。私の人生は少しずつ変わり、その頃から、定期的にアルコールを飲むようになりました。仕事が終わるといつも仲間とカフェへ行って、3人でウオッカ1瓶を空け、酔っぱらうような日々でした。
日毎に飲む量が増えていきました。家に帰るといつもひどい状態で、妻とは毎日喧嘩をし、時には掴み合いになったこともあります。それも子どもたちの目の前で。セルゲイとオクサナは私を怖がるようになり、口をきいてくれなくなりました。
ある日、私は友達数人とカフェで話していると、別のテーブルの男たちが喧嘩をふっかけてきました。警察が到着した時には、その場には私ともう一人しか残っておらず、警官らが私たちを打ちのめしました。そして、警察署に連行され、喧嘩の全責任は私にあるということになってしまったのです。
供述書にサインをするよう強制されました。私はまだ酔いが残っていて、まともに書類を読むことができなかった。後でわかったことは、喧嘩だけでなく、窃盗の罪まで私に押しつけられていたということです。
友人らは私を助けることを拒み、結局有り金をはたいて弁護士を雇いましたが、その弁護士も私を助けることはできませんでした。私は8年の刑で刑務所へ送られたのです。
6年後、行状がよいということで釈放されましたが、ろくなことはなかった。刑務所で結核を患い、妻とは離別し、共有していたアパートから追い出されました。両親はとうの昔に亡くなっていた。親戚に助けを求めましたが、元囚人で結核患者の私とかかわり合いをもちたい者はいなかった。そして、路上暮らしへ転落です。私は高層住宅の地下室で、同じような境遇の人たちと暮らし始めました。
そんなある日、『家路』へ行くようにと、アドバイスを受けたんです。そこへ行くと、ストリート・ペーパー『家路』を路上で販売して合法的にお金を稼げるかもしれないから、と。以降、『家路』をオデッサの路上で販売して3年になります。その間、弁護士らの助けを得て、書類を取り戻し、パスポートと個人識別コードを手に入れました。
新しいガールフレンドもでき、私たちはオデッサの郊外、ネルバイスコ地区で一緒に暮らし始めました。家事をし、庭仕事をして、週に3日は街に出かけてストリートペーパーを販売する毎日です。もうアルコールは飲まない。結核クリニックで治療を受けているし、今では子どもたちに会う機会もあります。すでに成人していて、私の昔の罪を許してくれました。
いつもは、「プリボズ」市場の横で販売しているんです。そこにはいつも新聞を買ってくれる人がたくさんいますから。この仕事は好きですね。
もし『家路』に助けを求めなかったら、どうなっていたでしょうね。たぶん酔っぱらって、どこかの地下で死んでいたでしょう。私のことを信じ、仕事をくれたストリートペーパーの編集者らのおかげで、自分の人生を変えることができました。
岐路に立ったとき、私は手助けと支援を得ることができましたが、それらがなければ生きのびることはできなかったでしょう。今はすべてがうまくいっているんです。今度はこの私自身が、困難な状況に陥った他の人々を助けたいと思っています。


『家路』
ウクライナ南部の都市オデッサを拠点に活動する財団。ホームレス問題とともに、ストリート・チルドレン、HIV/AIDS、アルコール・ドラッグ依存症のためのプログラムも行っている。

※掲載内容は取材当時のもののため、現在と異なる場合があります。

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